5年前と温度はきっと変わっている

書くことは脳内の言語化ではあるけど、”言語”という枠組みにはめている以上、たくさんの非言語情報や無意識も同時にただよっているのだろうと思う。その無意識には効能があって、それに知らず知らずに影響され、その一部が言語となって現れているのもあるんだろうなあ。

Re: 書くこととモヤ

最近、文章的な実験をちょいとしているのだけど、同時に自分について考えることが少なくなっていることに気づいた。文章の実験はnoteで、内省のようなものはこっちに書く感じで分けることにした。

それで、なんとなく昔のnoteを見ていたら、5年前に「書く、撮る、描く。悩む。」と題してこんなことを書いていた。

最近「書く」ことをnoteで再開して、その「味」をまた噛み締めている。そして、書くことは楽しい。それは単純に久しぶりだからかもしれないし、書くことのほうが自分のライフワークとして合っているのかもしれない。

5年前の自分と同じように、2023年の自分もまた「書く」を再開して、その「味」をまた噛み締めている。繰り返している。たぶんその繰り返しは、また違う温度になっている。書くことのほうがライフワークとして合っている、という部分への理解度はちょっと上がっている気がする。

後半では「もう三十路だし、そろそろ全力を注ぐ形式を決めるべきタイミングなのかもしれない」と書いている。やけに力んでいるようだが、続けてこうも書いている。

いやいや、悩みたいだけ悩めよ、ということなのかもしれないし。もしくは、3つの動作は連携できるのかもしれない

そんなおれの目の前には「40」という年齢の背中が見えてきている。まったくもう、ずっと繰り返してるじゃんか、とあきれながらも、年を重ねることは「なにかに戻る」ことの解像度を上げることでもあるのかもしれない。なにかの痕跡を残すのであれば「書く」が一番なんじゃないか、とも思うし、どれだけ時代が進んでも”紙の上にある言葉”の力はそんなに弱まることはないのではないか。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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