近所の古本屋でずっと売れ残っていた専門書があった。『アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン伝』である。裏をみると「定価2800円」の表記、500円で売られていた。
この人物のことは全然知らないが、古本屋に来るたびに「科学」の棚で見かけては「ずいぶんと安いよなぁ」と思っていた。帯をみると「日本近代化を支えた英国の化学者」とある。
それで、ついに買ってみた。最近のぼくの本を買う基準に「よくわからないもの」があるので、このよくわからない専門書、安いし買ってみるか、と。
とても丁寧な製本で、カバーを外すと押し印のようにタイトルが表示されている。カバーがない状態だと、定価5000円を超える本にさえ見えてくる。
このアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソンという人物、どう日本に貢献したかというと、幕末から明治にかけてイギリスに渡った日本人留学生たちを、家族のようにおもてなしした、ということであった。
ぼくは歴史に疎いから、「幕末」とか「江戸」と書かれても、その時代背景はあまり浮かばない。ただ、この日本人留学生のなかに初代総理大臣である伊藤博文がいる。ウィリアム氏がいなければ、伊藤博文もいなかったかもしれない。そう想像すると「日本の近代化を支えた」の意味がだんだんとわかってきた。
「日本人留学生」というのは、長州ファイブと薩摩スチューデントのことである。長州藩から5名、薩摩藩から19名の日本人の若者がイギリスに渡った。
普通に「藩」という文字を打ったが、江戸から明治初期にかけて使われていた領地の呼び名だそうで、今の「県」に置き換えるとわかりやすいが、仕組みがそもそも違ったりするらしい。「県」が採用されたのは1871年の廃藩置県からであるよう。
まずは長州ファイブ(ここに伊藤博文も含まれる)がイギリスへと渡ったのであるが、当時はペリー来航で日本が開国したばかりの頃。「おお、じゃあスムーズに行けたんだな」と思っちゃうのであるが、いやはや、命がけだったらしい。
開国したとはいっても、日本に急に外国人が入ってきて「植民地にされてしまう」と恐れたり、天皇もどうしたものかと困っていたり、急激な変化の中でちょっとカオスになっていたようである。
こうした状況の中、国内の政治や経済が混乱をきたしたのは外国人のせいだとして、外国人を追放しようとしたり、斬り殺したりする武士が現れるようになった。「攘夷(じょうい)」である。
84-85ページより引用
天皇は再び日本を鎖国状態に戻し、攘夷を実行せよ、という命令を幕府に下す。この状況の中で長州藩では「真の攘夷を行うには、西洋の海軍技術を習得するのが先だ」と考え、メンバーの3名に内命書を出す。「内命」というのは、正式ではない、内々の命令ということ。
いまの時勢では外国へ行くことなどとても難しいことではあるが、いったん外国と戦争になれば、外国の優れた技術を取り入れることも難しくなろう。したがって、三人には今後五年間の「暇(いとま)」を申し渡すから、その間にせいぜい「宿志(しゅくし)」を遂げるよう努力せよ。
86-87ページより引用
こうやって読んでみると「外国の技術から学びたいんだな。そうだよな」と理解しそうになるが、そもそも日本は200年も孤立(鎖国)していたのである。それがやっと開国したのにカオスになってまた鎖国しそうな状況である。そういう流れでの「外国の技術を学ぶ必要がある」という緊迫感であった。
しかも当時は外国渡航禁止令のようなものがあって、海を渡るのも命がけであった。最初の5名「長州ファイブ」は、イギリスに到着するまでに4ヶ月かかったらしい。
彼らにとって、海外渡航は、決死行であると同時に、「夷を制するの術」を習い究めるための苦行でもあった。攘夷のための外国行きだというわけである。
88ページより引用
そんな命がけで学びにやってきた日本人を丁寧に親切に迎え入れてくれたのが、ウィリアム氏である。日本人が到着した時でさえも、日本では攘夷が実行されていたりとするなかで、まるで家族のように扱ってくれたと。
この本はウィリアム氏の生涯を綴った本なので、前半は彼の生い立ち、後半は日本人留学生との関係について書かれている。
イギリスを代表する化学者になっていくウィリアム氏が、その名声に溺れず、学びをやめず、教授として多くの人々に伝えていく様も描かれている。化学に限らず、数学、物理、哲学と幅広くウィリアム氏は学んでいた。その知識を、日本人にも伝えた。
そうしてイギリスで学んだ内容を、それぞれのメンバーが帰国後に日本で生かしていくのであるが、ネットで調べるとメンバーの部分には「初代内閣総理大臣」「初代外務大臣」「工業、人材育成の父」「鉄道の父」「造幣技術の立役者」「サッポロビール設立」などと表記されていて、それぞれのメンバーがどれだけ日本の近代化に貢献したのかがわかる。
その「彼ら」を育てたのが、ウィリアム氏といってもいいのかもしれない。単なる教授ではなく、妻のエマ氏も一丸となって彼らを家族として迎え、帰国後も手紙の交換をしたり、留学生の墓がイギリスにあったりする。
著者は、この本で「異質の調和」という言葉を使っており、ウィリアム氏が「異質」とも捉えることのできた日本人留学生を家族のように迎え入れ、技術を教え、現地の暮らしを教え、イギリス人と日本人が「調和」していく様子を、ウィリアウム氏の生涯を通して伝えたかったのかもしれない。
単に古本屋で売れ残っていたから買った本であるが、この本を読んでみて、江戸時代〜明治時代の時代背景がもっと知りたくなった。
300ページ弱の本であるが、当時の資料や写真が豊富にカラーで掲載もされていて、実質200ページちょっとくらいの読みやすい専門書のように感じた。
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