にぶい腹痛を感じながら、朝8時頃の公園にて『火花』のラスト20ページを読み終える。トイレの気配を感じ、「芥川龍之介への手紙」というエッセイを残して家にもどる。
「家に近づく寸前でお腹が”もう着いた”と勘違いするのはなんでなんだ」「想像力ってのはすごい力を持ってるんだな」とよくわからない方法で冷静を保ちながら、スタスタと歩き、無事に家に着く。
最初のトライだけでは落ち着かず、しばらくTikTokを見ながら過ごし、二度目のトライ。お腹をさすりながらソファでじっとしていたら、やっと落ち着いた。昨日は軽い昼食で夕食は抜いてしまった(食べるのが面倒だった)ため、「たぶん、胃が空っぽのせいだ」と仮説をたてる。
カフェにやってきてモーニングのハムサンドをほおばる。おいしい。え、こんなおいしかったっけな、と思うくらい体が栄養を欲していたのを感じた。やることがなくて「ひまだーひまだー、なにしていいかわからない」と駄々をこねていたぼくの胃は、「ハムサンドを溶かす」というタスクを手に入れたことで、ぼくのことをすこし放っておいてくれそうである。かなり落ち着いた。
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昨日TikTokに親鳥がヒナに餌を与える映像が流れてきて、そのまま立て続けに5、10本と見てしまった。その小さな体をふるわしがら、親鳥の鳴き声に反応して口をめいっぱいに開けて餌をねだる姿は、”生命力”そのもののようで、美しさ・残酷さ・淡々さが混在していた。
いもむし、カマキリ、バッタなどの餌を親鳥がくわえて巣に戻ってきて、それにヒナが反応して口を真上にめいいっぱい開いて待機する。その光景は、親鳥への「餌ちょうだい!」というおねだりの域をこえた「生きたい」という願望の全身声明のようにも見える。
見ていて「ん?」と思ったのは、ヒナのうんちを親鳥が食べる光景である。餌を飲み込んだヒナは、だいたいその数秒後にくいくいと体を揺らしはじめ、お尻を上に突き出す。そこから丸い白いうんちがにゅっと出てきて、それを親鳥が食べる。
調べてみると、ヒナには糞嚢(ふんのう)という器官が体内にあり、これがうんちを薄い膜で包んでくれる天然のオムツのような機能を果たしているという。しかも、ヒナは食べ物をぜんぶ消化できるわけではないから、そのうんちには水分や栄養素が残っていることがある。自分の餌を探している暇がない忙しい親鳥は、ヒナのうんちで栄養補給すると。なんてよくできた仕組みなんだ、と思った。
ちなみに、もし巣の中でうんちをしてしまうと臭いで他の鳥に居場所がバレてしまうから、薄い膜に包んで出しているというのがあるそうである。鳥の種類によっては膜に包まず、水鉄砲のように外にぴゅんとうんちを出すヒナもいた。
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生まれたての毛の生えていないヒナというのは、ほんとうにか弱い存在のように映る。内部器官が透けてしまうほどのシワのある薄い皮膚に、自重を支えられないほどの未発達な筋肉、閉じた目。そんな体が親鳥の声を聞くと、1秒間に4回くらいの速度で全身をふるわせながら、餌の入り口を懸命に差し出す。
本来立ち上がることができないその小さな体で、懸命に頭を真上に突き出すその行為は、それ自体が命をけずるほどの負担のようにも見える。命をけずりながら、命の支えを求める。それが生命力そのもののように見えた。
巣に他の鳥がやってきてヒナを1羽うばっていく、そんな光景も現れる。しんでしまったヒナの体を他のヒナに与える、そんな動画もあった。それを「残酷だ」と一言で表すのは簡単ではあるが、、、弱肉強食、リアリティ、自然の摂理などのいくつかの言葉が浮かび、これも生命力そのものなんだろうな、と思った。
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『火花』の最後に「血の通った激情の実践編」という表現がある。「前向きに生きよう」「他者にやさしくあろう」「人生は一度きりだ」など、何度も聞いたことがあるような言葉の先にある奥深さの表現として使われている。
なんども聞いたことがあるからといって、自分がそれを理解しているとは限らない。だいたいの状況に対しての答えは過去の人々がもうすでに提示しているが、それを理解するのはとてつもなくむずかしく、理解するしないの話ではない。でも、理解しようとする姿勢が大事である。そんなことを思った。
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一昨日いった「あ、共感とかじゃなくて。」という展覧会で感じたこと、昨夜からみはじめた親鳥とヒナの動画、今朝読み終わった『火花』。この3つからわき出た自分の感情がすこしずつ混ざっていっているような気分である。『火花』はまだしっかり消化できていない。
ふぅ。
ちょっと最近、力んで文章を書いている気がする。すこし適当にくずしていきたい。
※サムネはUnsplashより
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