玉入れと新しい穴

おれも同じく、ここ1週間ほど文章が書けていなかった。メッセンジャーに届いた「書きました〜」の通知で、久しぶりに書いている。交換日記がいい感じに「書く」という行為を自分に引き寄せていると改めて感じた。通知がこなければ「書いていない期間」が1週間さらに長くなっていたかもしれない。それ以上だったかもしれない。

Re: 飽きる、に飽きたら

ということでこの文章は、水を得た魚のごとく、通知を得た人間が書いているから、ながったらしくなる可能性がある。読了率100%がほぼ保証されているこの交換日記の特性に甘えて、書いてしまうと思う。お互いの日記にどれだけ反応するかも自由で、頻度も自由。そんな”玉入れ”みたいなコミュニケーションだと思っている。キャッチボールではなく、玉入れ。好きなタイミングで玉を入れて、それを取り出してもいいし、新しく玉を入れてもいいし、ただ眺めていてもいい。そういう温度感でやっているつもりである。

ちなみに、”玉入れ”という表現は、コテンラジオの樋口さんがどこかのポッドキャストで表現されていた。そこから借りた例えである。玉入れコミュニケーション。

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今朝友人とZoomして気づいたのが、「同じ穴を深く掘っている」か「新しい穴を掘っている」かの違いであった。よくもわるくも経験値が増え、だいたいのことが「同じ穴」だと感じてしまう。それだとどうもすぐに飽きてしまう。それを「新しい穴」だと解釈できるような、そういう脳の体操が必要なのかもしれない。

Youtubeで動画制作をはじめたときの6年前のおれは、それをブログの次にきた「新しい穴」だと感じていた。でも、やっていくとブロガー・ライター時代の構成力がかなり活きた。振り返ると「動画」も「ブログ」も「コンテンツ制作」という同じ穴ではあった。が、当時のおれは「おお!この穴初めてみたぞ!」と興奮して「新しい穴」だと解釈していた。「ものは考えようである」という何十回と聞いてきた言葉の重みが増す。

これは飽きないフリにも通じるのかもしれない。なにかをはじめて、飽きて、違うことをする。そのときに「捨てる」「忘れる」という行為を入れておかないと、積み上がった経験値が邪魔をして「これ、同じ穴だよな」と未知のものを既知の路線上に置いてしまうような気がする。おれの場合、これを(脳に)されるとあまり意欲がわいてこない。ワクワクしない。

ゼルダにワクワクしたのは、「ゲーム」という穴が新しかったからだと思う。中学生のときにテイルズとFFのプレイでそこそこ掘ったが、社会人になってからは一切掘っておらず、その穴はふさがっていたんだろう。もう穴自体を見失っていて、それは「新しい穴」に変化していた。

今までやってきたことは捨てる、忘れる。できそうになくても、そのフリをする。そのためには、一旦自分の思考をほぐして、体操をして、コリをとったほうがいい気がする。自分の中にある「見つけた穴」がオセロでいう黒ならば、それを全部「新しい穴」という白にひっくり返したい気分である。

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これをどうするか、という方法の中には「自分の思考のクセを意識する」というのは入ってそうだから、そういう意味で言語学(ソシュール、チョムスキー)と言語哲学(ウィトゲンシュタイン)に関心が向いている。それと並行して「アマゾンなどの原住民の考え方というのは現代の人の思考とぜんぜん劣っていないんだぞ」というようなことが書いてあるそうな『野生の思考』という本も気になっている。

遠野物語からはじまって古事記、そして『野の医者は笑う』で怪しいスピリチュアルな療法について読んで、そこから『野生の思考』に目線が動いている。シャーマンの本まで読みたくなってきている。これは自分にとっては新しい穴である。「読書」という同じ穴を掘っているとも考えられるけど、ぜんぜんそうは捉えていない。うごめく好奇心にまかせて気づいたら思わぬゾーンに入っている、そういうのは好きである。

とまあ気になっていることを並べてみたけど、どれも難しそうでちゃんと読むかわからない。とりあえず入門書から読んでいこうと思う。でも、難しくて高い本(『野生の思考』は5千円する)って理解できないとわかってるのに書いたくなっちゃうのよねえ。困ったもんだ。あー

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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