歯車をつくる、合わせる

現在16時50分、用事を終え、銭湯に入り、上島珈琲店に戻ってきた。喫煙ルームは満杯である。この密具合に「都会にきたなぁ」と感じながら、客の世間話にもまれながら、この記事を書いている。店内にはジャズBGMが流れ、アミュエストの宣伝放送がときたま流れる。新作の靴の宣伝をしていた。

今日、ずいぶんと久しぶりに占いに行ってきた。博多での用事を終え、ふと「行ってみるか」とGoogleマップで「占い」と検索した。


占いというものをぼくは、基本的には信じている。「基本的には」というのは、あくまで参考程度に聴く、ということであり、占いが必要、というほどではない。でも、ときにはこういう人知を超えたようなものに頼りたいこともあるものである。理屈でコネコネと考え回し、自力で進むのはちょっとしんどい時もある。そんなときに、天の声を聞いてもみたくなるというか。

結局、30分7000円の占いへ。なかなか高い値段である。ホームページには「はっきりとお伝えします」「他でしっくり来なかったら、うちにきてください」といった宣伝文句があった。

お店はマンションの一室にあり、清潔感あるホームページデザインとは違い、古めのマンションのようで壁のシミが目立っていた。ピンポンを押すとホームページの男性の方(おそらく代表)がお出迎え。


悩みを話すと、少し間をおいて「もし江里さんに子供がいたら、その悩みに関してどう決断されますか?」と質問された。ちょっと不意打ちで、少し考えて回答すると「それが答えです」と言われた。開始5分、なかなかのスピード感である。

占いというよりも「相談に乗ってもらう」という印象が強く、その後の残り25分、いろいろと話した。

最初の質問のような「そうきますか」と思うような不意打ちもあったが、と同時に「そうだよな」「そうかもしれないな」と実は背中を押してもらいたかったことも言われた。7000円の価値があったかはわからないが、後悔はしていないし、2000円そこらの占いとは違うものがあったかもしれない。行ってよかった。少し晴れた。


今までの人生で占いには10回前後行っている気がするのだが、言われることはだいたい決まっている。「すごいエネルギーを持っている」「繊細」「職人気質」など。たまに「あなたはやさしいから」と言われる。どうだろう。

やっとタイトルの歯車の話になるのだが、ぼくは今、歯車を「まわす」から「つくる」段階に戻っている。今まで何度も自分なりに歯車をつくってきたが、一旦ここでまた構造を練り直そうと。自分にはどんな歯車がつくれて、それがどう社会と噛み合うのか。

これについていろいろと考えるきっかけになったのが、このポッドキャストである。

5〜6回は聴いた気がするのだが、このエピソードで好きなのが「ゴーヤはゴーヤとしてしか生きれない」「変に甘みをだそうとすると中途半端になる」という話である。リンゴは甘いからスイーツの材料になるし、ゴーヤは苦味があるから炒め物に適している。ゴーヤがリンゴを目指してはいけない。

他にも「なるほどなぁ」と感じる話がいくつもあり、何度も繰り返し聴いた。

このポッドキャストを聴いて、占いも受けて、少しずつ現状への答えが浮かび上がってきた。それは「おれは職人である」ということ。興味のあるものを見つけて、それを掘り下げていく。どんどんどんどん。これがぼくのアイデンティティというか「こういう人間です」という回答の大きな比率を占めている気がする。


現在は個人事業主でありながらも事業が空っぽの状態なので、廃業してサラリーマンもありかもな、とよぎっていた。でも占い師に「廃業しなくても休眠でいいんじゃないですか?今は副業OKな会社も多いですし」と言われて、真剣に考えすぎている心がほぐれた。

ぼくは職人であるので、なにかをずっと創り続けたい。ただ、いまはその「なにか」が見つかっていないから、とりあえずは小休止としてサラリーマンをやってもいいのではないか。まずは働き、生活費を稼ぎ、少しずつ自分なりの歯車をつくっていけばいいのではないか。

ポッドキャストで「アーティストとして生きるってすんごい孤独。社会に認められないかもしれないし、あきらめも必要」という話があった。認められるかもしれないし、認められないかもしれない。認められることはボーナスだと思い、「自分はこうだし仕方ないな」という諦めも必要という感じだった。開き直りとも言い換えられるかも。

と同時に1000人に1人の割合で「いいねこれ!」と感じてもらえることができれば、それは潜在的には日本に10万人のサポーターがいるということにもなる。そうやって自分の歯車が社会と噛み合っていくのかもしれない。


紹介したポッドキャストでは、「苗木」という表現があった。「これだ」と事業をはじめたばかりの頃は、いわば幼い苗木状態。その苗木にできた実をたまたま鳥が食べにきて「まず!」と去っていくこともある。そのとき、「もっと甘くしないと」と変に合わせないほうがいいという。まだ成長しきっていない苗木だから、それがまずいのは当たり前なのである。収穫時期というのがある。

継続していくなかで自分の木(歯車)が大きくなり、「召し上がれ」と言える実ができたとき、やっと「おいしいじゃん!」と鳥が食べていく。それをどんどん成長させていくことで一見さんがリピーターになり、歯車が噛み合っていくのだろう。

自分の木は、太い大木ではなく、ほどよくしなる柔軟な木でありたい。今まで何度か挑戦してきたなかで「これはうまくいかなかったな」というものがいくつもあるけど、それは枝のひとつがうまく育たなかったということだと思う。いくつもの枝を枯らせながらも、ときにはしなりながらも、幹を育ててきてるんだと思う。


ということでなかなかのモヤモヤ放出となったが、そもそものこのサイトの目的がこれである。こうして書くことでモヤモヤを「モヤモ」、あわよくば「モ」くらいにしていきたい。今回は「モゃ」くらいになった気がする。

自分は職人気質だから、仕方ない。変にリンゴになろうとせずに、ゴーヤを極めよう。開き直りや諦めもしつつ、ぶれずに苦味を出していきたい。その苦味を気に入る人が現れれば、そこから歯車を回していけばいいし、現れなければ、それはそれである。

いまはとりあえず小休止、生活のために社会に合わせる勉強をしつつ、自分の新しい苦味を見つけていきたい。まぁまぁ焦らずに、である。

さて、もう18時をまわった。喫煙ルームの賑やかさは変わらず。今夜は友人の家に泊まるから、それまで博多の街をまた散歩だ。夜はまた匂いが違う。久しぶりの夜の都会である。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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