ぼくのヒーロー 山崎終

昨日、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』の言葉を紹介した。「未熟」というキーワードであったのだが、他にも気になる言葉があったから、メモ代わりにここに残しておく。

未熟ということをプラスの面に突きあげることが人間的であり、素晴らしいことだと思わなければいけない。

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。

ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉が大嫌いだ。ぼくはその代りに”歓喜”という言葉を使う。

『自分の中に毒を持て』より引用。それぞれ3文は別々のページ。

「未熟」というのは「未だ熟してない」ということであり、例えばスーパーでバナナが売られていたとき、緑一色のものを買うだろうか。バナナは黄色になってからが食べ頃であり、緑の時はまだ未熟である。

「未熟」という言葉を「欠陥」に近いマイナス要因として捉えてしまうことがある。でも、それは「自分のなかにまだ塾していない部分がある」ということであり、それは「いつか熟す」ということで、プラス面、ポテンシャルである。

こういう未熟な部分を受け入れて「平気で生きる」というのが大事なんだと思う。ただ受け入れるのではなく、「はいはい」と言いながらさらっとも生きる。そこにはある種の鈍感さ(ニブイ)も必要なのかもしれない。


ちょいと話が変わるが、ぼくはふとした瞬間に大好きなドラマ『夢のカリフォルニア』のエンディングメッセージを思い出す。2002年放送の堂本剛主演のドラマで、これがなかなかリアリティがあって、DVD BOXも持っている。

ある日、同窓会にいったら、当時人気ものだった人物(男性)が「この先、良いことなんてないんだよ」と言い放って屋上から飛び降りてしまう。残された3人(堂本剛、柴咲コウ、国仲涼子)は、その言葉に惑わされながら、自分探しをしていくようなストーリーだ。

ドラマとしてとくに華やかなシーンがあるわけではなく、どちらかというと、淡々と3人の自分探しを見せてくる。「淡々と」というのは「何も起こらない」わけではなく「現実味がある」に近いのかもしれない。

それで最終話の話だ。主人公の山崎終は無事に就職が決まり、営業をしているシーンでエンディングを迎えるのだが、そのときの言葉が「この先、良いことなんてないのかもしれない。苦しいこと、痛い経験だってするかもしれない。でも僕は、それを確かめていきたい。」である。

言葉だけをこうして書くと、なんとも暗いフレーズに聞こえてくるが、映像では山崎終が希望に満ちたような、少し笑った顔をしていて、悲観的なニュアンスは出されていない。


ぼくはこの言葉を思い出すたびに、山崎終の静かな勇気を思い浮かべる。彼は内向的でぼくに似ている。そんな彼が「よっしゃ!」と気合を入れるのでもなく、でも青い炎を燃やしながら、勇気を持って前に進んでいる。

この姿勢というのは、岡本太郎の本の内容とも重なる気がする。本当の自分を貫くというのは、その先に社会とのズレから生じる苦しく痛い経験が避けられないことでもある。でも「それこそが生きるということである」と岡本太郎は言う。

年齢を重ねれば重ねるほど「生きるって大変だ」と感じる。これは悲観的に感じているというよりは、じわじわとその事実を実感している感覚である。『夢のカリフォルニア』のラストの言葉には、この事実をしっかり受け止めた上で、勇気をもって生きようとする姿勢が表されている。ぼくにとっては、山崎終はヒーローでさえもある。


このドラマは世間的にはヒットしていないのか、感想自体もネット上にはほぼ見当たらない。ぼくにとってはマスターピースであるのだが。

いまは住まいが遠くなったので無理だが、最終話のロケ地である八王子の南大沢駅にある歩道橋に、定期的に行っていたことがあった。ここを歩くと、山崎終のにぎやかな両親と兄、いつも素直になれない山崎終、その彼に「恵まれすぎだよ」と歩道橋で冗談っぽく愚痴をこぼす柴咲コウと国仲涼子、そして彼なりに前に進もうとする勇気を思い出す。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

Leave a Reply

Your email address will not be published.

CAPTCHA