「心」を「かける」

昨日、やっとマリオを観た。

毎週の映画館習慣のなかで、毎回ある「観たいリスト」の下部に追いやられていたマリオの映画だったが(とはいっても観たいのである)、今週の上映スケジュールを眺めていたら、「ついにマリオか」となった。

ただ実は最近、「ほんとうに観たいやつがあれば観るし、そうでなければ銭湯もありでは?ネットから隔離される体験という意味では一緒だし」という感覚があがってきていて、マリオではなく銭湯、も検討していた。

決めかねていた夜、ツイッターでたまたまゼルダのゲームを評論している記事に出会い、その人が過去に書いた記事をたどっていったら「マリオの映画は傑作である」という記事に辿り着く。「観るか」と決断した。

めちゃくちゃよかった。観るゲームって感じだった。

さてさて、届いた日記を読もう、と。

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Re: 回らなさ

「人生そのものは合理的でも効率的でもなく、それを教えてくれるのが体なんだよ」という言葉におれの脳が反応して引用しはじめたのが、思想家の東浩紀さんの「タイパを追求するんだったら生きてないほうがいい」という言葉だった。

なかなか強い言葉ではあると思うのだけど、これはそのまま養老さんの「人生そのものは合理的でも効率的でもない」という言葉に流れつくのだろうなと思う。

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最近のおれはというと、頭脳作業ばっかりやっている。ゼルダがおれの好奇心のフタを開け、それは「読書」という対象に向かったみたい。こうして毎日午前中はカフェにいって、2〜3時間ほどをかけて読書のハイライトをObsidianに入れて、考えて、読書して、を繰り返している。

好奇心の対象は、いまは植物に向かっていて、なんかいろいろと読んでいたら「人間」という枠から出てみるか、みたいな感じになってきた。「人間という枠からでる」なんてちょっと「どうした?」みたいな表現だけど、これは単純に植物や動物がそもそも好き、という昔からの感覚からきているのだと思う。

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効率化の話に戻るのだけど、坂口恭平さんの『まとまらない人』という本を読んでいたら、「好奇心とかを制御しようとしないほうがいい」「感じるままにいろいろやって、やめる。ぼくはぜんぜんまとまらないけど、それがぼくだ」みたいなメッセージがあった。厳密に引用してないからニュアンスはズレているかもだけど。

いまはおれは頭脳作業しっぱなしで「体も動かさないと」みたいには思っている。ただなんかそれは、頭で考えて、ある意味での頭脳作業の結果「体も動かしたほうがいいよね」と動かすのは、なんか違うというか。いや違わなくてはないのだけど、なんか違うというか。

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「考えて行動しよう」とか「こうしたほうがいいよね」といったような頭脳だけからはきだされるものは、「効率化」という言葉に飲み込まれている気もする。いや、そんなこともないか。身体的経験をもとに考えることだってある。うーぬ、どうもモヤっている。

あ、そうか、「心がける」か。

「体を動かすことを心がける」と書いてみると、なんかそこには暖かい視線を感じる。まるで心が体を労っているように。そこには効率化、合理性、タイパ、コスパとは違う、自分の身体をケアするためのやさしさが含まれているように思う。

それはたぶん、自分の体の信号に気づいてあげることでもあると思う。その信号をキャッチしてあげて、「じゃあこうしようか」と自分をカウンセリングする。それが「心がける」なのかもしれない。文字通り、「心」を「かけて」あげる。心がける、いい言葉じゃないか。

いよいよ来週は、ジブリの新作ですか。楽しみだ。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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