「おまえ」と呼ばれるのが、昔は大嫌いだった。「おまえ」と呼ばれて嬉しい人はいないと思うけど、数年前のぼくは「おまえ」の耐性がなかった。
今から4、5年前、20代後半の頃だろうか、当時ぼくは横浜市戸塚区の清掃会社でバイトをしていた。まだ働いて1ヶ月も経っていない研修期間中に起こった出来事である。
主にマンションやアパートの清掃を行う会社なのだが、「掃除好きだしな、おれ」という気持ちで面接にいってみたら、「うちは完成度8割くらいでいいから。大体でいいのよ」と面接官に言われた。
働きはじめたのが8月頃だっただろうか、真夏である。仕事を覚えるのは当然だが、暑いから水分補給をこまめにしたいけど、新入りだしちょっと言いずらかったり、そんななか働いていた。
班に分かれて毎日3〜4箇所を会社全体で回っていて、「今日はあの班だったらやだなぁ」とか思いながら、毎回出勤してロッカーで着替えながら準備していた。
班のリーダーは5人くらいだった気がする。その日はまだ一緒に働いたことのない班だった。メガネをかけた、小太りの40代男性社員がリーダーだった。現場が小規模なようで、ハイエースより小さい車にリーダーと2人で乗る。
「よし、行くか」とぼそっとリーダーがエンジンをかける。「この人はどんな人なんだろう」とそわそわしながら、僕は新入りなりにハキハキ(なつもりで)「よろしくお願いします」と返す。
現場に着くまでは、世間話をして過ごしたと思う。妻子持ちのようで、「この給料じゃさ、やってけないよ。昇給も少ないし」とグチをこぼすこともあった。かれこれ10年以上働いているようだった。
どちらかというとマイペースな人のようで、話し方も雑というか、変にかまえていない感じがあった。20分ほどで到着。
現場についたら、まずは荷物をおろす。発電機を2人でおろして「電源つけといて」と言われる。すでにつけ方を覚えていたので「はい。わかりました」の返答だけで済んだ。
最初は水をフロアにふきかけて汚れを落としていく。ジェット噴射みたいなやつ。現場のアパートは3階建だったから、このホースを3回まで伸ばしていくのが慣れないと時間がかかってしまう。ホース自体が硬い。
作業自体は割とスムーズに終わり、最後の仕上げのポリッシャーをかけるときに、出来事は起こった。
このポリッシャーの扱いが難しく、慣れないと機械自体に振り回されてしまう。ぼくはまだ全然慣れていなかった。
このとき具体的にどんなやりとりがあったのかはもう覚えていないが、このとき、「おまえ」と言われた。
「おまえさ、それそうじゃないだろ」「ほんとによぉもう」
ぼくは(もちろん)「はい、すみません」と返したのであるが、内心はもう噴火である。「おまえ」と呼ばれるのが本当に嫌いだったから、頭のなかでリーダーを数回あやめつつ、表面上はまじめな新入りとして教えてもらった通りにやってみた。
でも、その後このリーダーとの現場を重ねるうちに「この人ぜんぜん悪い人じゃないんだ。言葉遣いが雑なだけなんだ」と気づいた。頭の中であれど、あやめて申し訳なくなった。むしろ、このリーダーとの仕事が一番気楽でやりやすくなっていった。
こんな経験を経て、ぼくの「おまえ」への耐性は上がった。
どうやら、世の中にはカジュアルに「おまえ」を使う人がいるらしい。怒りの感情が乗っかっていない、単なる呼び方としての「おまえ」である。
それでも「おまえ」と呼ばれることは気持ちの良いものでは全くないけど、反射的に「は?」という感情がわきあがることはなくなったかもしれない。
散歩しているときにたまにアパートを通ると、当時のバイトを思い出す。経理のお姉さん、元気にしているだろうか。
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