読書メモ #1『思考の技術論』鹿島茂

以前から気になっていた本『思考の技術論』をやっと買った。ハードカバーで500ページ超え、定価は4千円弱とちょっと手が出しづらい本だった。著者の存在は、シラスの配信で知ってはいた。

それでこの本、あんまりレビューとかがないのだ。X(旧ツイッター)では何件かある程度で、アマゾンだとレビューは3件でコメントはなし、読書メーターでも6件であった。買う前の判断材料がなんせ少ない。以前書店でぱらぱらとめくっていたが、しっくりきていなかった。

また、シラスに著者が運営する「鹿島茂のN’importe quoi!」という月額2200円のチャンネルはある。ただ、これは本を読んだ上で入るかどうか検討するべきかなあと思ったのであった。実際、気にはなっている。

買ったきっかけ

新年を迎えるにあたって、ちょっと高めの本を買ってもいいのではないか、というのがあった。あと、HITACHIが運営するサイトで「対談 楠木建×鹿島茂 読書と思考―その4 思考の技術。」という記事があり、この影響も多少ある。

そもそもこの本は、デカルトの『方法序説』をベースに組み立てられていることは知っていた。ちょっと難しそうではあったが、学者というよりは読者に語りかけるような文体で「分厚いけど読みやすそう」と感じたのもあった。

「正しく考える」とは

この本の副題は『自分の頭で「正しく考える」』である。「正しく」というのがなんだか買う前から引っかかってはいた。「正しい」ってなんだ、正しければいいのか、みたいな。

それで読んでみると、「なぜ正しく考えることが重要か」という文脈でこう書かれていた。

デカルトは、理性の平等配分という「条件の平等」にもかかわらず、「結果の不平等」が生まれるのは、理性の用い方に問題があるからだと考えました。この推論により、「条件の平等」から「結果の平等」を導くためには、理性の正しい用い方、つまり正しく考えるための方法を万人に教えなければならないという結論が導き出されたのです。

『思考の技術論』37項より

「理性」という単語がでてきたが、これについては『方法序説』に書かれているそう。

理性(良識)はこの世でもっとも公平に与えられているもののひとつ。誰も「わたしはもっと理性がほしい」なんて言わない。なにが真で偽かを識別する能力、理性がみんなに平等に備わっているのに意見が分かれるのはなぜか。それはそれぞれが違った思考方法を使い、ちがった考察をしていて同一のものを見ていないから。良い精神を持っているだけでは不十分で、それを良く用いることが大切である。

自分なりに書き直したが、こんなことが書かれているそう。なぜ「正しく考える」ことが重要かというと、なにが正しくて、なにが真で偽りかを区別する方法は確かに存在し、それを知っているかどうかで運命が分かれる。全ての人々の平等を導くためには、理性を正しく用いる方法、すなわち「正しく考える」方法を教える必要がある。そんな感じだろうか。

さきほどの引用した文章に戻るが、要するに「条件は平等なのに、結果は不平等」だから、この結果を平等にするための方法を身につけよう、という話である。そのための手法が、この本の冒頭で語られている「正しく考えるためのデカルト四原則」であるのだという。

正しく考えた先のメリットは

なぜ「正しく考える」ことが必要かはわかった。とはいっても、ちょっと説教くさくないか。デカルトに「おれの理想像に着いてこい」「信じてくれ。これが秘技だ」と言われているようである。

おれの思考を先読みするように、著者の鹿島氏は考察を加えている。

人間というものは、「より幸福になりたい」、言い換えると「より多くの利益を得て、より幸福になりたい」と思うからこそ、「正しく考える」にはどうすればいいかを懸命に模索するようになったというのです。あるいは、「より多くの利益を得たい」、「より幸福になりたい」と願うことそれ自体が「正しく考える」ことと同義なのかもしれません。

『思考の技術論』39項より

「正しく」というとそれぞれの正義を振りかざすようなイメージを持ってしまっていた。ここの多分違和感があったのだろう。ただ読んでみると、そういう意味ではないらしい。人間みんな幸福になりたい。利益いっぱいほしい。そのための方法を懸命に考える。それが「正しく考える」ことである。デカルトがいう「正しく」はこういう意味らしい。

昨日たまたま藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』を読んだが、ここでは主人公とヒロインにとっての「幸福」のすれ違いが起きていた。それぞれの人にとってなにが利益で、なにが幸福か、というのは違うだろうが、それをみなが追い求めるのはそうである。おれだってそうである。

正しく考えるための教育が日本にはない

また、明治大学で教授を務めた経験も持つ著者は「そもそも日本では考えるための教育がない」と言う。

私は日本人として日本で小・中・高・大と教育を受けてきましたが、学校教育においては「《考える》ための方法」を教えられた記憶が一度もないと断言できます。どうも、日本には「自分の頭で考えろ」と言う人はあっても、自分の頭で考えるには方法があるのだから、その方法を教えなければならないと主張する人はあまりいないようです。

『思考の技術論』53項より

そういえば、これもこの本を手に取った理由のひとつかもしれない。思考法に関する本は、今まで何冊も読んできたが、どれも特定の分野で有効であったりするような、いわば断片的な思考法本が多かったように思う。体系的に「考える」を教えてくれた本は手に取ったことはないのかもしれない。

それで「思考の技術論」という飾らない真っ向勝負のタイトルかつ分厚いこの本に出会い、手を伸ばしたのもあったように思う。

日本では、考えるということは、呼吸したり、あるいは食べたり飲んだりするのと同じように、方法というものを教えなくても、「自然に」身につくものと見なされているのです。反対に、日本の教育において「知識」はたくさん与えます。それは、知識が与えられていれば、考えることはその知識をもとにして「自然に」身につくと思われているからなのです。

『思考の技術論』53項より

なんとなく理解できた。ぜひ「正しく考える」方法というのを学びたい。残り約450ページ、じわじわと消化しながら読んでいく。

紹介した本
・『思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」』(鹿島 茂)

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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