臆病の保護膜

天気アプリを開くと、曇りに雷マークがついている。雨雲レーダーには「しばらく雨は降りません」とある。でも、雷は鳴るかもしれない。その可能性は教えてくれない。「今日は緊張感をもってね」と言われているような気がしてきた。

公園につくと、鳥が鉄棒に近づいてくる。最近親鳥の動画をみたせいか、その鳥を「親鳥かなぁ」と思う。カラスがやってくる。「ヒナうばっていくのかなぁ」と偏見の目で見てしまう。そうかもしれないし、いやきっとそうではないだろう、と思いながら TikTokでみたカラスがヒナを親鳥からうばっていく動画が頭によぎる。右脚に目を向ける。アリが3匹のぼってきている。なんでこいつらは、懲りずに何度も何度ものぼってくるのか。カカトを地面に何度か叩きつけて、ふりおとす。すまんな、そこはのぼるところじゃないんだ。

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昨日、映画『火花』を観おわった。またそうめんみたいなパスタを食べながら、ラストでスパークスが客に「しね!しね!しね!」といっているシーンでうるっときてしまう。よかった。「原作と少しちゃうやん」という違和感は、どうやら吐き出すことで成仏したようだった。主人公を演じる菅田将暉の関西弁は、標準語混じりのものに聞こえた。

小説『火花』を読んで、漫才ってずるいな、と思った。随所に「ここ笑うところやで」という付箋がはられているようで、何度もクスクスしてしまい、うるうるもした。それは映像でみる漫才とはちょっと違う体験で、そこに仕込まれた笑いの種を、読みながら自分で発芽させていくような感覚があった。

『火花』を読んでいるときは「又吉」という名前が作家に見えていたのに、エッセイ集『月と散文』を数ページ読んだ頃には、自分の中の又吉は芸人に変わっていた。奥さんの話がでてきて「へー、結婚してたんだ」と少しおどろいてネットで調べてみると、今年の6月に又吉は「このままじゃ結婚できない」と思った瞬間を明かしていた。その1本のエッセイを読んで、手に持っている本が”お笑い”というラッピングに包まれていったように感じた。

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三行で撃つ』という本にはさまざまな文章術が書かれていて、読了後、ぼくのなかの「書くぞ」という気持ちが後押しされたような気分になった。

文章は短くしよう、という意味で「二つに分けられる文は、全部、二つに分ける」と書かれていたのだけど、又吉のエッセイにはやけにながったらしい文章があった。五つくらいに分けられそうだった。ラグビー部員に読書少年を見つけたような気持ちになって、ちょっと安心した。

次は『命売ります』を読む予定だと昨日書いたけど、次は『スター』(朝井リョウ)を読むことにした。いままで200ページ弱の小説を読んできたが、これは400ページ近い。帯には「誰もが発信者になった現代の光と歪みを問う新世代の物語」と書いてあり、読むか!と気合いを入れてみた。おもしろければ、この気合いは不要になる。

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YoutubeやTikTokによって誰もが発信できるようになったことは素晴らしいことだとは思う反面、「有名になる」という言葉をもっと分解したほうがいいのでは、とふと思う。その有名になっているのは名前か、人格か、キャラクターか、声か、顔か、はたまたその全てか。

Youtubeでの発信を奮闘したひとりとして、動画で自分を出すというのは、選挙に立候補するようなものなのかもしれない、と思った。発信する一言一言で他者とつながることができ、想いやり、鼓舞もでき、何かを変えることができるかもしれない。一方で、思わぬ火種が落ち、忘れたころに燃え上がる、そんなリスクだってある。そのリスクをやっと多くの人が認識できるようになって、「有名になる」という言葉の骨格が見えてきているのかもしれない。

思わぬ火種を落としたくないから、批判を先回りするように言葉をつけくわえる。誤解を避ける。自分が発信者だったら、そうするだろう。理解できる。以前の記事に追記を加えた理由も、これだったりする。そこには反省の念ももちろんあるが、それは自分の中だけで反省しておけばいい話でもある。それでも追記するのは、「忘れたころに燃え上がる」がこわいからだ。

おれは臆病である。みんな臆病なんだ、きっと。そんな臆病者が発信できて、だれかと繋がれるのは、夢のある世界だ。残酷で、夢がある。ふと、親鳥がヒナを育てる動画が頭に浮かぶ。

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恥ずかしがり屋で臆病な自分が、それでもなにかを発したい、だれかとつながりたいのは、夢を追っているからだと思う。暗闇のなかを歩き続け、潜む残酷性におびえながら、きっとどこかにあるエメラルドを掘り起こそうとしている。

『月と散文』の最初の文章を読みながら、「おれはどんな膜に保護されたいのだろうか」と考える。

どうしようもないことを好きなように書く。その瞬間は純度の高い阿呆になれる。それを繰り返すと、自分が阿呆の膜に覆われていく。阿呆の膜に保護されている時だけは恥ずかしいことから解放される。阿呆の幕のなかで無呼吸の自由演技を続ける。

情けない感情や暴れ出した混乱が極まり阿呆の幕が破れると、ようやく息を吸うことができる。すると、やっぱり恥ずかしくなってしまって、また阿呆の幕を紡ぎ始めるのだ。

『月と散文』又吉 直樹 P4

ちょっと長くなってしまった。8月になった。そろそろ、日々の思考の歩みを「社会」という階段に向けなくてはいけない。続きはカフェで考えよう。雷、鳴らないでほしいな。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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