いま、博多駅の上島珈琲店の喫煙ルームでこの記事を書いている。もうカフェでタバコを吸うことはできない時代かと思っていたが、都会ではまだ分煙喫茶が生き残っているようだ。
ただし、ちょっと席がせまい。ぼくの16インチのMacBook Proがはみ出している。午前10時前なので、スーツ姿の人もぽつぽつと見かける。
今までの人生で3回ほど禁煙に挑戦してきて、うち1回は禁煙外来でもあったが、結局こうして吸ってしまっている。いつか禁煙したいのはやまやまだが、これについて書くと長くなりそうなのでやめておく。
気晴らしの話である。まぁ、言ってしまえばタバコもこの類ではあるのだが、コロナで気晴らしのバリエーションを変えざる終えなくなっている。
マッサージに行くとか友達に会うとか、人と接する気晴らしがしにくくなっているから、最近は散歩したり、こうして都会にでたり、たまに銭湯に行ったりと、ひとりで完結するものばかりになった。
気づけば、ぼくの気晴らしは「変わった」のではなく「減った」のである。減ってしまうと、その減ったなかで繰り返すことになり、飽きもくる。ということで「更新」しなくてはいけない。意識的に。
「密」との向き合い
考え方としてまずひとつ更新すべきなのは、「減った」と感じている選択肢を「やらない」「できない」と考えるのではなく「気をつけて実行しよう」に変えることである。
どうしても「コロナだし」「密だし」という精神的ストッパーがかけられがちなので、「いや、気をつければいいじゃないか」と転換していきたい。
「大丈夫っしょ」という楽観全開の発想はどうかとは思うが、お店や施設にいけば必ずアルコール消毒が置いてあり、運営側だって最善を尽くしているわけである。ここは自分の精神状態と社会情勢とのすり合わせであろう。
もともと僕は心配性なので、「大丈夫っしょ」という楽観性を持ち合わせるくらいがちょうどいいのかもしれない。タバコを吸わない人がガンになることだってあるだろうし、徹底的にコロナ対策をしたとしても感染する人だっているかもしれない。
もしかしたら、ぼくがまだコロナに感染していないのは心配性ゆえの結果論としての対策というよりも、運なのかもしれない。
タバコ正当化みたいになりそうで、そのつもりはないのだが、物事にはつねに陰陽があって、タバコを辞めれば辞めたことによって空いた穴を別のもので埋めようとするだろうし、コロナ対策を徹底的にやれば、その結果でてくるストレスを別のもので解消しなくてはいけない。プラスかマイナスかの単純な話ではなく、そこには両者がからみあって全体像をつくっている。
なにを言いたいのかというと、世の中には自分にはどうにもできないことがあるということである。「ちゃんとやればコントロールできる」は幻想であると言い聞かせたい。「いや、タバコは辞められるだろうが」と別のぼくがつぶやくが。
気晴らしの深度
もうひとつあるのは、ひとりで完結する気晴らしを深めよう、という方向性である。
散歩をするときに路上観察ばりに観察眼を働かせ、「あの貯水塔はいつ建てられたんだ」「この植物はなんだろう」「この鉄塔は個性的だな。どんなコンセプトで設計されたのか」などと深くやってみる。
他にも映画やドラマを観たとき、本を読んだとき、いつもより感性を働かせてみるとか。それを(このサイトに)アウトプットする。
あとは小説を書くというのも、妄想的な気晴らしとして良さそうだ。『小説家になって億を稼ごう』という本に書いてあった執筆方法がなかなか自分に合っていてワクワクした。
「気晴らし」の意味
「気晴らし」という言葉には「心をまぎらわす」という意味があるらしい。そのまま「気を晴らす」と変換できそうだが、気晴らしというのは悩みを解決するというよりも、そこから一旦離れて、まぎらわすことで心にスペースを確保する作業かもしれない。
時間ができたときに退屈してしまうと悩みが入ってきやすいので、ときには悩み解決も必要だが、バランスを保つために、改めて自分の気晴らしのバリエーションを豊かにしていきたいものである。
現在10時26分、喫煙ルームがほぼ満杯だったのが、みんな出勤したのか、今はぼく含めて4名。さて、これから博多の街を散歩しながら、気を晴らそうではないか。
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