潜水がうまいカエル

交換日記ってどれくらいの頻度で出すもんだっけ。ネットのない時代だったら1ヶ月に1通とか、もっと間隔があるかもしれない。

本の情報を電子化して「電子書籍」と呼んでいるのは強引だし、ネットを活用して「交換日記」をしているのもちょっと時空を曲げているのかもしれない。

頻度の話をしていたのに、定義の話に移っているじゃあないか。おれの思考はうねっている。

Re: 歩く、より、泳ぐだし、泳ぐ、より、潜るだし。

現在9時42分、カフェでモーニングをしながら10時半の用事まで待機中。ということは、30分くらいしか書く時間はない。書いてみるか、流れるように、思考に任せるように。

・・・

ここ5年くらいの活動を振り返ると「おれはマーケティングに疲れたのかもしれない」という表現が頭に浮かんだりする。昔は「ネットの魅力は、自分の潜在的な共感者に物理的な制約を無視して出会えること」と自分で考えてみたもので、うん、これはいまでも「そうだよな」と思う。

そんな言葉を脳内に漂わせていながら、気づくと「発信したい」という表現になっていき、「じゃあどうやったら見つけてもらえるんだろう」という発想になっていく。もちろんさ、おれには承認欲求というものがあるし、たくさん読んだり、見てもらえたりすると、とってもうれしい。テンション上がる。

それでもここ最近は、マーケティング思考が自分の頭の中にある種の筋肉として存在していて(別に実績があるんだぞ、とかそういう意識は全くないのだけど、あくまで思考の存在として)、「自分ってどんなことが好きなんだっけ」という良いスタート地点を迎えても、気づくと「いまのトレンドは」とかって考えてしまう。

この思考の流れを批判するつもりは、毛頭ない。ただ、脳内に「自分」「世間」という2つの言葉があったとき、「自分」が「世間」に飲み込まれそうになっている、「世間」が巨漢として「自分」にのしかかっている、そんな状態に気づくとなっていたのかもしれない。

陸地と海があったとき、世間に向かうことが陸地で、考えることが海だと考えたとき、おれは陸地にいる時間が多く、日焼けしすぎているのかもしれない。

たまに内省だってするんだ。でもそれは、ゴーグルをつけて海に潜ること、シュノーケリングで綺麗な海を眺めにいく行為に近かったのかもしれない。

だって、ゴーグルつけないで潜るとか目が痛いじゃん。視界も悪いしさ。

昨日ちょうど『スマホ時代の哲学』を読みはじめて、冒頭の50ページくらいのところには、モヤモヤを抱えることの大事さみたいなことが書いてあった。

難解なコンテンツを摂取すること、わかりやすい答えのない光景に向かうことは、ゴーグルなしで潜ることに似ているのかもしれない。難しい(視界が悪い)、メリットがよくわからない(目が痛い)。

こうやって久しぶりに文章を書くことは、おれにとっては「一旦、海好きの両生類になるわ」みたいな感じかもしれない。厳密には「川好き」かな。さすがに魚類になる勇気はないけど、両生類だったらなれる。潜水のうまいカエルになりたいわ。

ある意味での退化もよいのかもしれない。ダウングレードするという意味ではなく、ある場所から”退く”。おれは陸地にちょいと慣れすぎた。もっといったらAIのトレンドとかも追っかけることで空を飛ぼうとしてたんだよきっと。空を飛べたって海の底は見えない。

まぁ、ゴーグルを手放すつもりはない。砂浜にでも置いておこう。シュノーケリングも楽しんだって。

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現在10時02分、20分ほど経過した。今回はこんな感じにしておこう。まぁまぁ、焦らずに、と自分に言い聞かせながら。

※サムネはBlenderで遊んだもの。タイトルとのミスマッチさはご了承を。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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