線を描く、通り抜ける

カフェにいたら、たまたま交換日記が届いた。本を読んでいたせいか、脳がちょっと活性化されているのもあり、「書いちゃうか」ということで書いてみる。

Re: 昼食後の15分

そうそう、「移動」の話で、移動そのものを楽しむという感覚が自分にあったことを思い出した。「移動」というと「目的地」に向かうための手段ということで、「移動」はどうも脇役になりがちだけど、自転車で遠出していた頃は、目的地に行くことが脇役で、移動そのものが主役くらいな感覚があった。目的地を決めずに散歩するのだって、「移動」が主役になっている。

今日、書店の美術評論セクションで『ドローイング DRAWING』という本を見つけ、最初の30ページくらいを読んだところなのだけど、そこでは線とか面とかって言葉がでてくる。

なぜいまだ、ドローイングは定義されつくしていないのか。それは第一にドローイングが過程だからだ。drawingという現在進行形の名詞は、〈引っ張る〉(draw)ことが進行する過程そのものである。

『ドローイング DRAWING』16項

たぶん、いろいろな物事を「線」で例えることができるんだろう。完結したものなんてないから、全てが現在進行形だと考えれば、全部が「線」だとも言える。移動だって線である。目的地に着いたって、また線を描く。ドローイングする。

絵を描くモチベにつながればと思って手に取った本のスケールが予想以上に大きく、なんか全然「描くぞ」とならなそうな雰囲気があるものの、いい意味で予想に反して、脳内で「線」「ドローイング」という言葉の意味が書き換えられていくような感じがある。

『ドローイング DRAWING』では、代表的な線の例で国境の話がでたりして、ネットの話も含めて「線は分断を生むことがある」というようなことも書いてあるが、じゃあそういう社会でどう自由に線を描くか、という話で「通り抜ける」という表現を使っていた。

いまこの時代に自由に線を描くためには、既存の境界線を取り払うことや、境界線のないまっさらな地表が出現することを夢見てはいけない。線を描くことは、つるつるした表面に真新しい通路を建設することではなく、通り抜けることなのである。

『ドローイング DRAWING』35項

この「通り抜ける」という表現、なかなかすきだなあと思った。いままで自分の強みとかやってみたいことを棚卸しして「ニッチ」「勝てそうな領域」「ブルーオーシャン」とかって言葉が浮かんでいたけど、「通り抜ける」はなんかいい。力んでなくて、スマートな感じがする。

— ☕️ —

ふう、ちょっとした読書メモにぴょんぴょんと線を描いたような内容となった。ただの自己満ブログになったような気もしてきた。まあ、そういうときもあるよね、ということにしておく。

そういえば、カフェからの帰り道、豚骨ラーメンの匂いがした。しばらくほぼ1日1食で過ごしているおれは、空腹にはけっこう慣れていて、「心」と「体」が分離している感じがある。お腹がなっても「体がお腹すいてるみたい」と変に冷静に客観視するところがある。

ここを繋ぐのが匂いである。匂いがすると「心」が「お腹すいた!」となる。匂いがトリガーとなって、心と体の間に線を描き、やっと「お腹すいた!」と一体化するみたいである。

「たまったもんじゃない」と豚骨の匂いにまどわされながら、そんなことを考えていた。

— ☕️ —

あとサムネを毎回設定するのが面倒になってきたから、今後は同じやつを使用することにした。ほんとうはサムネ自体をなくしたいのだけど、現状のブログテーマではサムネありきのデザインしかないようで、そこは「うう」となったが、まあ仕方ない。もっと気軽に書くために、サムネ選びの手間はカットすることにした。

ながったらしい、なんというブログだ。ごちゃごちゃである。でも、こういうポンコツモードで書くことを大事にしたい。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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