家の中での遊牧の話で、鴨長明の部屋を思い出した。以前、漫画版の方丈記を読んでいたら、家のイラストが掲載されていた。四畳半?とも言われるようなコンパクトな家で、生活の間、仏道修行の間、芸術の間、と区分けされていた。
それぞれの間を仕切りで区切っていて、物理的に空間を区切っているのが印象的だった。仏道修行の間には掛け軸がかかっていて、芸術の間には楽器が置いてあった。
そういうことを思い出しながら、自宅の横長の机を区切るのもおもしろそうだなあと考えはじめる。やるとしたら芸術の間だろうか。まあ、ぽっと考えてるくらいのものだから、「やるぞ」という感じではないのだかが、とにかく、ぽっと考えた。
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ふと、自分の食への期待値を他の分野にもあてはめたら、うまくいくんじゃないかと思った。
「おいしい」のハードルが低く、だいたいのものはおいしい。自分だけが食べるなら、という話ではあるが、レシピなんて見ないし、適当に料理して、それに「おいしい」もあまり期待していない。避けたいのは「まずい」である。が、「まずい」は滅多に起こらない。
何度か「微妙だなあ」というのはあった。昔、土鍋に魚の身を入れたら生臭くて食べてられなかった。これはさすがにまずくて、全部は食べれなかった。今が炊飯器を使うから起こらないが、米が硬くて芯が残っていても、「あらら」と言いながら、とりあえず全部食べたりした。
あと最近は、味噌汁に砂肝とかレバーを入れると臭みがあるなあと思い、入れなくなった。ビーツとつるむらさきを入れたら、なんかえぐみ?のようなものを感じ、これも微妙だった。ちょいと食べるならいいが、いっぱい食べると「うーぬ」となる。
そうやって自分の中で「これはやめておこう」みたいなものは少なからずたまってはいっているが、かといってレシピを調べてなにか本格的な料理をつくろう、とはならない。そこまで手間をかけるのであれば、外食でいいじゃないか、となる。
これは「期待値が低い」とも言えるし「関心がうすい」とも言えるのかもしれない。まあ、ぜんぶだいたい「おいしい」から、適当にやっても「これでいいのだ」となりやすい。
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一方で、他のことだとレシピを見がちかもしれない。本を買うこともあるし、動画を見たり、記事を読んだり。いろいろと考えて期待もしちゃうかもしれない。先回りして考えちゃうかもしれない。
食にいたっては、先回りなんてしない。だいたい「おいしい」のだから、適当に料理して、できあがったものを食べて自分なりの「おいしい」という感情を感じ、もくもくと食べる。それがちょっと微妙な味だったとしても、そのときだけ「微妙だなあ」となるが、食べ終わるとその感情は消え去る。引きずることが一切ない。そして、明日もまた適当につくる。
食にむけるまなざしを、他に向けてもいいのかもしれない。
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