高校時代から現在までの、ぼくの中での「本との向き合い方」の変化について振り返ってみたい。まぁ、ここ20年弱くらいの変化の話だろうか。
「高校時代」と設定したのは、これ以前は読書が嫌いだったからである。国語が苦手で、「この人物の心情を述べよ」なんて言われても「知らん」としか思わなかった。よくわからなかった。
文章を読むのも書くのも苦手だったから、読書感想文なんて大嫌いであった。読んで、考えて、まとめて、書かなくてはいけない。
これががらりと変わったのが、村上春樹の『海辺のカフカ』との出会いであった。当時エレキギターをやっていて、レディオヘッドが大好きだった。それで友人が「トムヨークが村上春樹って人の本、好きらしいよ」と言うのである。
近所の図書館の棚を眺めながら、手に取ったのはなぜか上下巻ある本だった。合計600ページくらいあったと記憶してる。これを2日で読破。読書嫌いのぼくが、である。ここから読書に惹かれていった。
その後にどーんといっぱい読みはじめるということではないが、他の小説を手にとってみたりした。初めて自分のお金で買った小説は『水の迷宮』。当時ぼくは水族館で働きたいと思っていたから、水族館で起こるサスペンスは面白く読めた。
そこから専門学校を卒業して社会人になり、と時間は進む。だんだんとビジネス書も読むようになり、本、書店自体が好きになっていった。
未知の情報がたくさんある、けど死ぬまでに全部は読めない、その圧倒感が好きで、書店はぼくにとってのディズニーランドみたいなものになっていった。
3年半ほど東京で社会人をして、1年間のバックパッカー旅にでたときは、旅系の本をたくさん読んだ。
『深夜特急』『ガンジス川でバタフライ』『エグザイルス』、もちろん村上春樹の紀行文も読んだ。インドのリシュケシュのカフェの棚で見つけた『食べて、祈って、恋をして』も面白かった。
小説、エッセイ、ビジネス書、旅本、なんでも読むようになり、知りたいことがあったらとりあえず「本」に聞いてみることにしていた。
本って、なんだか汚してはいけないようなイメージがある。お金を払って買ったのだから、そこに何を書き込もうと勝手なのだが、どうも罪悪感がでてしまう。
20代後半くらいまでは、本に書き込むということをほとんどしなかった。金銭的な問題もそこにからみ、読んだら古本屋に売ればちょっと得をするし。
あと、一人暮らしもするなかで本が増えるとどうしても移動に不便だから、ある程度増えてくると古本屋に売った。読んでいない難しい本を手放したことも何度かあり、後悔している。
さらにメルカリがでてきたもんだから、「読み終わったら売る」が加速した。新刊を買ってすぐ売れば、定価の6〜7割で売れることもある。お得に本を読める。
でもだんだんと「これって本末転倒なんじゃないか」と感じるようになった。本を読むのは、そこに書かれている内容を吸収するためである。でも、できるだけ汚さずに丁寧に読んで売る、というプロセスは「読書を楽しむ」から離れていっているように思えた。
だって自分のお金を出して本を買っているのである。その本になにをしようが、僕の勝手である。そうしてだんだんと、本に書き込みをするようになってきた。
今では本にじゃんじゃん書き込みをする。青と赤も使い分ける。このほうが内容が頭に入るし、再読するときの目印にもなる。本はどんどん汚すべきだ、というのが今のぼくの読書方針である。
積読への罪悪感もなくなった。1冊読み終わるまで次の本が読めないなんて、とんだ機会損失である。全部読む必要はないし、気になる本があったらどんどん買う。おそらく、ぼくはいま30冊くらい積読してるけど、別に気にしていない。
そこに読んでいない本が物体として存在しているだけでも、なにかしらの機能を果たしているとさえ感じる。
Kindleでの読書もよくする。端末がある。これはこれで便利ではあるが、電子書籍もそこそこ活用してみて、読書の楽しみ方としては紙がやっぱりいいな、とアナログ派に戻っている。
それで最近のぼくの新しい関心はというと、古書である。古書というのは絶版本で、言い換えれば「需要がなかった本」もしくは「その時期においては需要が途切れた本」である。(当時の出版社の事情がからむこともあるのかもしれない)
でも、ぼくの好みは世間とずれていることがよくある。だから、古書の中に面白い本が実はたくさん眠っているのではないか、自分好みの本があるのではないか、と感じる。
大多数の人は読まないけど、ごく一部の人は読む。それはもう絶版だから新刊書店では買えない。だから古本屋か古書店に行くしかない。ディズニーシーに気づけた気分である。
ぼくはわりと飽き性で、ぼわっと燃えては、しゅんと冷めることが多い。もって3年である。
でもこうやって振り返ってみると、「本が好き」という感情は20年近く続いているみたいである。しかもまだまだ開拓の余地(古書)があるみたい。
ぼくは常になにかをアウトプットしていたい人間のようで、その栄養分として「本」がかなり機能していると感じる。「本は心のご飯」と言ったものだが、ほんとうにそうである。
なんか、これからどんどん本の量が増えていきそうな予感がするのだが、こうなってくると、いつか将来、こじんまりとした本屋を開くのもいいなぁと思うこともある。さて、どうだろうか。
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