努力と運

家の外壁にずっと蛾がとまっている。「生きてるんか?」と気になり調べてみたら、「夜行性だから」とか「メスが同じ場所にとどまってオスをフェロモンで誘き寄せている」というのがでてきた。

前者はなさそうだ。だって、ずっとそこにいる。おれが寝ているあいだに実は外で活動していて、朝になると同じ場所に戻ってきている、なんてことはあり得るのだろうか。かなりの帰省本能だぞ、まじで同じ場所にいる。

ということで後者が濃厚である。しかも「そのまましんでしまうメスもいる」ということだったので、おそらく、しんでしまっているのだろう。蛾の成虫の寿命は数週間らしいからである。

そこに蛾は「いる」が、生命力は「ない」。それをみて「しんでるね」とはなんとも表現がしっくりこない。でも高確率でしんでいる。なんとも不思議である。生命の痕跡だ。

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最近『生きづらい明治社会』という本を読んだ。ジブリの新作をみて「むかしの様子を知りたい」と感じて、時間軸がふりもどったのもある。

タイトルの通り、事例を紹介しつつ、明治がいかに生きづらい社会だったか、というのが書いてある。岩波ジュニア新書ということで読みやすく、200ページ弱のコンパクトな本である。

なにが「生きづらかった」のか、という話ででてくるのは「通俗道徳」という言葉である。

人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学会では「通俗道徳」と呼んでいます。

『生きづらい明治社会――不安と競争の時代』- 71-72ページ

ある人が成功(の定義はさまざまだが)しているのは、その人の努力も含まれてはいるが、生まれた時期や家庭、身体能力など、自分ではコントロールできない部分も影響しているはずである。努力できるのも環境あってこそ、というイメージである。

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明治の社会では、ある人が貧困におちいってしまったとき、その原因は「努力が足りなかったから」「努力のやり方がまちがっていたから」という言葉に収縮していたそうである。ちょっと長いが、もうちょっと具体的な内容を引用する。

明治維新という大きな変革は、江戸時代の社会の仕組みを壊しました。江戸時代の村請制による連帯責任のように、相互に助け合うことを強いられてきた人びとの結びつきはなくなります。できたばかりの小さくて弱い政府は頼りになりません。頼りになるのは自分の努力だけです。こうした状況のもとでは、ともかくも人はがんばってみるしかありません。がんばって成功した人は、自分の成功は自分のがんばりのおかげだと主張します。成功しなかった人は、ああがんばりが足りなかったのだなあと思いこむようになります。 本当は、成功した人は運がよかっただけかもしれず、失敗した人は運が悪かっただけかもしれないとしても、です。私は、この本のなかで、こうした思考のパターンに人びとがはまりこんでいくことを「通俗道徳のわな」と呼びました。

『生きづらい明治社会――不安と競争の時代』- 144ページ

明治の前の江戸時代は、「どの家に生まれるか」というので人生が左右されていたが、明治に入ってこれがなくなった。教育の機会も広がり、どんなに貧しい家庭に生まれても公務員やエリートになれる、そんな可能性がひろがったタイミングでもあったそうだ。

生まれたときの社会的地位よりも高い地位に到達することを表す「立身出世」という言葉も生まれ、有名人の成功話やノウハウなどが記載された『成功』という雑誌が1902年に刊行されていたそう。

そうやって「努力しだいで誰でものしあがっていけるぞ!」というある種の希望がでてきた反面、そこに含まれた「運」という要素はそぎ落とされ、成功しなかった場合は「がんばりが足りなかったんだ」と自分の実力を疑うしかないという空気だった、と。

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ほかにもいろいろなことが書かれているのだけど、個人的にはこの「がんばるしかない」「成功しないのはその人の努力のせい」というような「通俗道徳」が気になったし、本の内容としてはここに背骨がある印象は受けた。

明治のころは国民健康保険制度はなかったし、選挙権は国税15円以上を支払う25歳以上の男性に限定(当時の人口の1%強)ということで、現代と比べると国の制度がまだまだ整っていたなかった点はあるが、それでもこの「通俗道徳」の話はいまに通じるなぁと。

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とくに現代は、インターネットの発達で可能がひろがりまくっているタイミングである。こうしてブログを書いたっていいし、写真を撮ってもいいし、動画や映像でもいいし、音楽をつくったっていい。だれでも発信ができてしまう。自分自身もそうやって、手を替え、品を替え、発信してきた。

そんでいまは(あくまでぼくのタイムラインでは)ツイッターのおすすめタブを開くと、「AIだ」「乗り遅れるな」とあおってくる人びとがなだれこんでくる。ちょいとはChatGPTやStable Diffusionを触ってはいるが、言うほどやってはいない自分がいる。

これほど可能性がひらかれた時代だから、努力次第でだれでも成功者になれる!そんな雰囲気はある。ツイッターやYoutubeには「まだ誰も気づいていない…」とか「神アプリ」という言葉が並び、「この波に乗らないのは損だよ。乗らないのは勝手だけどね」というような雰囲気がにじみ出ている。

個人的に新しいサービスは好きだし、好奇心があるからいろいろ触ってはみるが、それでも「まぁ、結局は運だからな」という精神はもっておきたいところである。社会の仕組みはどうであれ、そういう視点は忘れずにもっておきたい。

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10年前にそこそこブログが読まれたのは運がよかっただけだし、Youtubeだってそうだった。もちろん、そこに自分なりの戦略はあったのであるが、それは10%くらいではなかろうか。もっと少ないかもしれない。タイミングが合っていなかったら、それらの努力のほとんどは実らなかっただろうに。

日常会話レベルであれば英語ができるのも、それは自分自身の努力というよりも、単に親の仕事の関係で中学時代の3年間をサイパンで過ごした、というのが大きい。当時、「どうするか」と家族会議は開かれたが当時の自分は「行きたいか」と聞かれても「わからない」だったのではないだろうか。最終的に、姉の「行きたい」の一言で家族での移住が決まった。

現在の英語力の7割くらいは帰国後の独学によるものが大きいが、これもサイパンへの移住がなければ実現しなかった努力であって、結局は「運」である。

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ただ、もしかしたら明治と現代がちがう点は、「好奇心を具現化する方法はなにかしらある」ということかもしれない。明治のころは「のしあがったるぞ」という出世の意味合いが強かったが、現代は「おもしろそう」という感情をなにかしらのツールで具現化して伝える方法が、どこかにあったりする。

それが「はたらく」になるかは別として、「手段」というツールがあふれているおかげで、それぞれの表現はしやすいのかもしれない。むしろ現代は、「なにがやりたい?」という問いへの熱量が問われているのは感じる。

明治のころは、江戸時代からの反動であふれでた「これで出世できるぞ!」という、社会の中でのステージアップへの期待が高まっていて、そこにはあんまり「自己表現」というニュアンスはなかったのではないだろうか、と想像したりした。

明治のころも現代も「努力次第だぞ」という空気感がただよっているなかで、現代は「自己表現」という自分の底なし沼と対峙しないといけない、そんな難易度を感じる。それさえ(一時的でも)みえれば、実現方法はいくらでもある、というイメージである。

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もしかしたら、「自分との対峙」というのは努力した分だけ、見えてくるものかもしれない。いや、これについては他者との交流で少しずつ現れたりする面もあるから、どんな人と、どんなタイミングで、どんな内容を交わすか、という面では運も大きい。が、「準備しておく」という面では努力は有効かもしれない。

「努力している人は夢中の人に勝てない」という言葉があるように、自分からしたらぜんぜん努力じゃないのに、相手からすると努力に見える。そんなものに出会うのがやはりよいなぁと思いつつ、そういうのは「見つかる」というよりも「現れてくる」ものかもしれないし、努力も部分的には有効だと信じながら、それでも「結局は、運だ」というアナウンスを脳内で月に1回くらい流してやりたい気分である。

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わりとまだふわふわしているが、とりあえず読後感というものをちょいとはき出してみた。

そういえば昨夜、ぬか床に入れたゴーヤを一部とり出し、今朝たべてみた。苦いが、わるくはない。これにもうちょっと塩分が加われば、おいしいかもしれない。もうちょっと様子をみよう。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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