ぼく、おれ、わたし

昨夜に洗濯機をまわしていたことに朝気づき、公園にいき、帰ってきて「干さなくちゃ」と思いながらも書いている。書いたら、干す。

ブログを書いていると、主語が「ぼく」だったり「おれ」だったりしていることがある。あまり定まっていない。交換日記で「おれ」を使っているのは、その友人と実際に喋るときにそれを使っているからで、現実を反映した結果といえる。ここで「ぼく」を使うのは、違和感が残る。

それでこうして誰に向けてでもなく書いているときは、「ぼく」となる。たまに「おれ」になる。基本は「ぼく」なのだけど、書いていると自然に「おれ」と打っているシーンがある。

たぶん自分の中で、書いた内容が会ったこともない人に届くか、が要因となっているように思う。実際に会って喋るときは、親しい間柄であれば「おれ」を使うし、初対面であったりする場合は「ぼく」か「わたし」を使う。くだけた雰囲気の場合は「ぼく」を、フォーマルに近い場合は「わたし」を使う。そういうふうに、とくに意識するでもなく使い分けているような気がする。

この意識が、「書く」動作をしているときも効いているのだろう。「おれ」は、なんだか主張が強い気がする。「おれはこう思います」と伝えると、キャッチボール中に急にボーリングボールに切り替えてしまうような、そんな気配を相手に与えてしまうのではないか、と。これが親しい相手であれば、「そうは思わないだろう」と仮説をたてて、「おれ」を使う。自分に近づく。

そう考えると、不特定多数に届くであろう交換日記で「おれ」を使っているのは、ある意味で筋が通らない気もするけど、その内容はあくまで相手にとどける文章であるので、そこを優先した結果、「おれ」になっているのだろうなあ。

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英語だったら I だけで済むのに、日本語には主語が多い。あなた、きみ、おまえもYouに集約できる。さらにいえば、50のひらがな、50のカタカナ、1000ほどの漢字(小学校6年間)を覚えなくてはいけないことを考えると、こんなにも面倒で複雑な言語を習得していることを幸運とさえ思うし、その奥深さを好意的に受け止めている。

たった26種類のアルファベットで単語をつくり、単語間にわかりやすくスペースがあり、横書きしかない英語を想像すると、縦書きもある日本語がますます無理難題な言語にみえてくる。20代半ばの頃、イスラエルでアラビア語の初歩を習っていたときにぼくが「右から左に書くアラビア語は左利きにやさしい」といったら「日本語はどうなの?」と聞かれた。「左から右だね。縦に書くときもある」というと、相手は横と縦が混在する言語の存在に驚き、「え、どういうこと」と混乱していた。

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主語の話をしていたのに、気づいたら「日本語はむずかしい」という話になってしまった。日本語はむずかしいけど、むずかしいからこそ、ぼくはこうやって「書く」に何度も帰ってきているのだろう。

もし、いままでずっと使っていた「ぼく」を「わたし」に変えてみたら、たぶん、文章そのものが変わるんだと思う。想像すると違和感があるが、そういう実験だってできる。架空のキャラクターで「わし」「わがはい」を使い、相手を「おのれ」「おぬし」と呼んじゃうことだってできる。

主語が変わると、その世界の温度が変わるのかもしれない。ぼくは考える。おれが考える。わたしも考える。わたくしにも考えさせていただきたい。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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