そういえば「自分」はないんだった

今日は早朝から「暴風雨」だそうだ。アプリにそう表示されている。久々につらそうな傘マークを見た。ベランダにでると、まだ雨は降っていない。とりあえず、乾いている洗濯物を選別し、そうでないものは部屋に移動する。ってか、今日雨ってことは、昨日スーパー行っておけばよかったな。雨の日に仕事帰りに歩いてスーパーに寄るのはだるい。帰り道の導線状にないのだ。1日働いた体で数日分の野菜やらなんやらを背負って帰るのは、だるい。と思いながらかれこれ6年くらいやり続けているゲーム「ソウル・オブ・エデン」を開く。アイテムをコインで買ったら、残高が「7777」になった。今日はどういうラッキーがあるのだろうか。これ自体がラッキーという現象そのものだろうか。

Re: 「自分」がないから「トレンド」になびくのか

ベランダで届いた日記を読んでいると、「あ、そうそう」と訂正案件を思い出す。

自分が「ある」「ない」というのは面倒くさい表現でもあり、おれの場合、「自分なんてなくてもいいじゃん」という分人的、みうらじゅんインスパイアな思考でもあるから、根本的に「そもそも自分って何?」という哲学に誘われてしまう。我思うゆえに我あり、なんていう領域をじっくり考えていけるような環境をまたつくりたくなってきた。

おれも最近は「自分」というのを強く考えたりはしないようになっているというのがあった。多分、前回書いた「自分のまま」というのは、「自分探し」とか「自分を大切にしよう」とか、自分への執着ではないのだろうとは思う。読み返すと、あのときだけ自分が20代に戻ってしまったような気さえもする。

詳しくはp.s.にゆずるが、最近東洋哲学と仏教に興味がわいてきて、いくつかの本を読んでいる。「自分探し」とか「自分とは」というのを一旦通った身としては、もうそろそろそういうのはいいだろうという感情があるのだろう。「自分なんてない」という言葉は、不思議と楽になる言葉である。

とはいいつつも、なにかをつかまなくては、にぎらなくては、見つめなくては前に進めない気もするわけで、その仮の焦点を毎回定めつつも、仮のまま、なにかに定めつつも定めない、そういうふわっとしてるのに安定しているような、しかし不安定のような、ゆえに安定しているような、まだまだよくわからないものに焦点を合わせてみたい自分がいるのだろう。

まああと、おれは日本人なわけで、だったら西洋哲学とかよりも東洋のほうがなんかルーツを覗き込んでいる感じがしていい。ふと天気アプリを開くと、暴風雨のマークは「雨のち曇り」に変わっていた。

p.s. 一昨日だろうか、『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』を買って一気読みしたのだけど、これで東洋哲学への好奇心が花開いた感じがした。ブッダは王家生まれなのか、200冊の教えを一言でまとめた龍樹やばい、空海ものすごい天才だったんか、など。

巻末の参照本にあった『仏教の大意』を読んだが、なにを言っているのかわからなかった。文章は読めるが、なにを言いたいのかぜんぜんわからない。コテンラジオも聴いたが、やっぱりわからない。禅は「言葉をすてろ」的な話らしいし、そもそも言語化できないことを言語で語っているものなんだから、かろうじてできることは「読ます」くらいなのだろう。体得には出家、修行なのだろうか。

そういうことを思いながら、まだ東洋哲学への好奇心はでているらしく、いまは『ブッダ伝』を読んでいる。角川ソフィア文庫の仏教の思想シリーズを集めようかとも思っているが、まあ、好奇心の継続性次第で積読する可能性は十分にある。でも、ほとんどなかった東洋哲学の本が本棚に増えていくのはうれしい。

ブッダ、仏教、空海などとキーワードを打ち込んで東洋哲学の本を探していて思ったけど、西洋哲学系に比べて、表紙でなかなか判断ができない。デザインが教科書的な感じか、植物の日本画っぽいやつが多く、デザインでそんなに遊んでいないものが多い。たまに「これはちょっとやばそうな本かもしれない。やめておく」みたいな本もあって、それを表紙で判断ができない。だから読んだ本の参照リストであったり、ググってでてきた信頼がありそうな著者の本を選ぶみたいな感じになった。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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