自分の主成分と「いつも通り」

そういえばおれは、待ち合わせ時間の前に本屋で時間をつぶしていたっけな。心配性なのか、待ち合わせ時間の30分前には到着したいというのがあったりする。

ただ、相手にプレッシャーを与えたくないから、実は着いているのだけどその辺で時間をつぶして10分前くらいに「ついたよ〜」と連絡を入れたり。

お互いが実は早めに到着していて、「あれ、もう着いてたんですか?」とどこかでばったり会うなんてことも起こりえるんだろう。今のところ、35年間、それは起きたことがない。

— ☕️ —

普段はなにげなくこの☕️区切りを使用しているけど、今回はほんとうに家で淹れたコーヒーを飲みながら書いている。

ふー、さて、なんだか最近ヒューマンドラマ系の映画を観る意欲がでてきている。『エレファントマン』であったり『花束みたいな恋をした』であったり。

会社員をしていて忙しいときは、サスペンスとか洋画のスプラッターとか、あとはドキュメンタリーとか、そういうものを観る傾向が強かった。

「好きな映画ジャンルは?」と聞かれたら、こういうジャンルを答えているのだけど、そのときの精神状態次第で吸収するコンテンツの志向が変わるのだから、実際は「”今は”これです」ということなのかもしれない。

もしかしたらがんばっているときはこういうスパイス、いや、激辛ソースを欲しちゃうのかもしれない。

Re: 日常にスパイスをふりかける(=非日常)

今はどうだろう、おれにとってヒューマンドラマ系を観ることはスパイスなのだろうか。

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『花束みたいな恋をした』で会社員になった麦が書店で『人生の勝算』を立ち読みしているシーン。志向が変わった麦を印象付けるような場面だった。

その麦を見て、彼女の絹は「変わってしまったんだな」とでも言わんばかりに「ねぇねぇ、これおもしろそうだよ!」と手に持っていた数冊の本を見せることをためらう。

「仕事っていうのは遊びじゃないんだよ」「この生活を続けるためにおれはがんばってるんだ」というような(こんな感じのセリフあった)麦の言葉が印象に残った。ある意味で資本主義の威力というか、避けられない(でも実は避けることはできるのかもしれない)外圧のようなものを見せつけられているようで。

「物事を大きく変えてしまう」という意味では、資本主義も恋も、同じレベルのスパイスに見せてくる映画だった。

パセリをちょいと振りかけるレベルではない、味をがらっと変えてしまうということで言えば、スパイスというよりも激辛ソースかもしれない。それが辛いのか、甘いのか、という違いはあるかもしれないけど。

— ☕️ —

「自分」という大切にしたい主成分があるのであれば、それを大きく変えない程度にスパイスというものを取り入れたい。たまに激辛ソースをかけるのもいいけど、それは一時の小山をつくり、また日常に戻るようなものかもしれない。

一方で、激辛ソースではないのに、ものすごくおいしくしちゃうスパイスもあるんだろう。すでに自分が持っている成分にがちっとフィットして、ものすごい化学反応を起こしちゃうような。

そういう意味でいえば、おれにとってヒューマンドラマ系のコンテンツに触れることは、今までにない化学反応を起こしうるかもしれない行動になるかもしれない。

目の前の光景がいつも通りに見えても、自分はいつも通りじゃなかったり。そうなると、いつも触れている出来事だって違った化学反応を起こす。

その「いつも通り」が自分なのか、世界なのか。いつも通りなんてそもそも存在しないのか。そんなことをふと考えた。

※サムネは先日のフォトウォークで撮影したもの

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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