昨夜桃鉄をやっていたら、現金が一兆円を超えてしまった。10連続で目的地についたせいで、そのボーナスが500億、700億、1000億とどんどんふくれあがったせいである。スリにとられる前にこれは使わないといけないと思ったが、物件を買ってもなかなか減らない。ゲームの世界ではあるが「お金って使うの大変だ」と感じた。
Re: ただのおおみじゃ
「ただの」という言葉に、なんだか自信あふれるニュアンスを感じてきた。確かにプーはただのプーだ。おれも「ただのえり」である。「ただ」という言葉には、いま書いたような「単なる」というような装飾のないありのまま感のような意味もあるが、「ただね」という「BUT」意味も、「これはただだよ」という「無料」という言葉も浮かぶ。”ただ”のえりが”ただ”の冊子を配っているが、”ただ”、そこには秘密があった。
あと、役者と俳優の違いの話。はっとした。自分のなかで分けられていたものにラベルがついたような気分である。
というのが、おれのなかでジェシカ・チャステインとジェシー・アイゼンバーグは演技への向き合い方がぜんぜん違うと認識していた。前者は役者、後者は俳優であったのかと気づいた。
ジェシカ・チャステインは『ゼロ・ダーク・サーティ』での迫力ある演技で知った人であった。一時期聴き込んでいたOff Cameraという番組のインタビューで彼女は「どんな役でも挑戦する」ということを話していた。今までにやったこともない役だと挑戦のしがいがあってやりがいを感じると話していた。役者である。
一方で、『ソーシャル・ネットワーク』『グランド・イリュージョン』などで有名なジェシー・アイゼンバーグは「役を選ぶ」といっていた。自分に合っているかどうか、自分にできるかどうか、という視点で出演するかどうかを選ぶそうである。俳優だ。インタビューなどを聞いているとけっこう早口なのであるが、それは脳の回転に追いつこうと口を動かしているような感じがある。そうした現実の彼のキャラクターがフィットしているのが映画では感じる。『ゾンビランド』なんて彼のための役なんじゃないかと思うほどハマっていた。
「ただの」を「JUST」と言い換えるのであれば、ジェシカもジェシーもJだ。なんだこのJつながりは。JUST JESSICA、JUST JESSE、じぇじぇじぇ。Japan。フランス語で「わたし」はJe(じゅ)だったな、そういえば。
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いままで役者と俳優を区別したことなんてなかったが、実は区別していたのだった。それらに「役者」と「俳優」という言葉がリンクしていなかっただけで、知ってはいたのである。柳楽優弥は役者で、そう言われてみると確かに大泉洋の役者っぷりが『浅草キッド』にあった。独断ではあるが、藤原竜也は俳優で、山田孝之は役者だろう。『ガンニバル』の柳楽優弥はやばかった。彼は役者なんだ、と感じた作品であった。
振り返ってみると、小学校は漫画家になりたかったし、そこからプロスケーター、農業、ユーチューバーと「何者」かになろうと生きてきた。そろそろそこから離れて「ただのえり」になろうとしているのかもしれない。「ただの」と「日常」という言葉は近い距離にあるような気もする。
キャタピーからトランセルになって、またキャタピーになるのではないだろうかと思えてきた。ただの自分になるための通過儀礼。トランセルになることはあくまで儀式で、まったく変わらない姿でまたでてくる。蝶々は夢なのかもしれない。
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そういえば、昨日某競輪アプリの広告が流れてきて、このアプリはじめてお金入って仕事やめちゃった、AI予測で高確率で当たるし、初回で1000円もらえるから元手もいらないよ、と言っていて「ああ、おそろしい世界だ」と思って、さっとスワイプして、流行りのダンス動画が流れてきた。
p.s. 実はこの交換日記を書くには2度目である。1度目は脳内で、2度目はこうして書いている。仕事の休憩中に届いた日記を読んで、そのまま脳内で返事をした気分になっていた。届いてすぐ読む、書こうと思ったときに読む。届いた日記をいつ読むのかで返答の温度感も変わるだろうなと思った。
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