今朝、公園にいたら世界堂のトラックが走っていた。「ずいぶんと遠くにいるもんだなぁ」と勝手に新宿の御苑近くにあるのが唯一の店舗だと思い込んでいるおれは思った。
「恩師」という言葉を読んで、「はて、おれにはそのような存在はいるだろうか」と考えてみると、浮かばない。学生時代の記憶はけっこうおぼろげで、よほど印象的ではない限りは細かい記憶はなく、どんどん上書きされていくような脳みそを持っている。つらかった出来事があったとしてもわりと時間の経過で風化してしまうようで、便利なもんだとも思ってる。
記憶が鮮明になってくるのは、専門学校時代からである。そもそも昔になればなるほど記憶が薄れていくのであれば、「そりゃ、一番最近の学生時代なんだから鮮明だろうよ」とも言える。ただ、たぶん、そこには「アウェイだったかどうか」というのはあると思う。
幼稚園は上海、小学校は日本、中学はサイパン、高校と専門学校は日本。このなかで幼稚園と中学は海外だったのと、高校は編入だったのがあり、アウェイ環境であった。小学校と専門学校は最初から最後まで日本である。
アウェイじゃなかった小学校や専門学校は、一言で表すのならば「楽しかった」である。たぶん、そこには内向的な自分にとって「アウェイじゃなかった」というのが関係していると思う。誤解がないように付け足すと、幼稚園や中学が「楽しくなかった」ということではない。単に、記憶が薄いということだけである。まぁ、中学は学校生活よりもスケボーに夢中だったから、そっちの記憶が脳内を占領しているのがある。
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「アウェイ」というのをもうちょっと具体的に考えてみると、これは自分が苦手な「進行中の会話の途中から参加する」というのに似ている気がする。もしくは「できあがったコミュニティに入る」という感じだろうか。
中学はサイパンだったから、英語という言語的な壁があったし、高校は編入だったから途中参加である。そういう途中から「どうもどうも」と入って馴染んでいくのは苦手なんだろうなぁと振り返って思う。幼稚園はたんに幼かったから記憶が薄いということだとは思う。
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「後悔」という言葉につなげていくと、こうやって振り返って「あのとき、こうしてればよかった」という後悔の感情はまったくなかったりする。
月並みな表現にはなってしまうが、あーだこーだやってきたことで今の自分がいると思っているから、仮に「後悔」という感情を原動力にタイムマシンで過去にいってなにかを変えちゃうと、いまの自分が自分でなくなってしまう気がして、そういう意味で特に後悔というのはないという感じである。
たまに「学生時代に読書にふけった」という人を羨ましく思えたりする。おれが読書に目覚めたのは高校2年くらいである。ただ、デビューが遅かったからこそいまの読書感情があると思っているから、これについても後悔はない。まぁ、「ちょっとうらやましいなぁ」くらいのものである。
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さて、ここから最後の締めくくり的な文章を何度か書いては消したりしていて、また大風呂敷を広げちゃうモードに入りそうである。いったん、これは下書きにした明日に書き直すというのもありだが、いや、とりあえず出してしまう、ということにする。
日記に反応するようにぼんやりと学生時代を振り返り「とくに後悔というのはない」という感覚を吐き出す、謎の内容になった。
最近「書く」ときは交換日記オンリーになっているのもあるかもしれない。日々の書くが、減っている。というのも、今月はリサーチ期間と決めて、とにかくインプットしてObsidianにまとめて、脳内データベースを蓄積しているのもある。心理的に、そっちを優先しているようである。
なんか筋トレをサボっている気分になってきた。また、ちょくちょくひとりでも書いていきたいところである。
※サムネはUnsplashより
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