明日は友人の結婚式、ずいぶんと久しぶりのスーツを着ることになる。今日はブログを書いたり、Youtube作業をしたりして1日の半分は過ぎそうである。
やりたいこととして、アジアンドキュメンタリーズのお試し加入(今日までに加入すれば100円安いらしい)、あとじゃみーが気になっているという話があって、「Obsidian使うとしたらどんな使い方だろうか」と関連動画を見たりしていた。アイデアの発酵目的として、やはり良いかもしれない。
そういえば、今朝公園にいったとき、やたら小さい虫なのに「ブーン!ブ〜〜〜ン!」と音はでかいやつがいるもんだなぁと思った。一生懸命なのか、威嚇なのか、特に理由はないのか。飛んでいる音だけ聞こえてくると「ぬお、でかい虫どこだ!」となるが、目の前には小さなカナブンみたいなものが浮遊していた。
Re: あいつのパンツを脱がせたい
そういえばジャーナリングの話でいうと、おれはmuuteを使ってる。Awarefyも試したことがあるけど、なんとなくmuuteのほうが合っている。デザインがかわいい。
とはいっても毎日投稿することはなくて、だいたいはモヤモヤしたときに書いている。わかりやすいくらいに会社員時代は投稿が毎日続いていたが、退職してからはほぼ投稿していない。モヤモヤしたときに書き出すことでそれを軽減していたという意味では、ジャーナリングだなぁと振り返る。「モヤモヤしたときはmuute」という感じになっている。
というか、リンク先のAwarefyの記事にジャーナリングの効果として「肺機能の低下」とあったのだけど、これは「向上」のことだろうか。肺機能が低下することで呼吸がゆっくりになり、リラックスするということだろうか。どっちでもいいのだけど(よくないか)、ジャーナリングは良いなぁと思う。
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自分のメモを見返していると、最近とくに光っているように見える言葉は「低解像度」だった。
これはピクセルアートみたいに文字通りの情報量としての意味もあるし、こうしてブログを書くことで周りの情報から距離を置き、自分の埋もれた感情や欲求が見えるのではないかという希望は、ある意味で”環境の低解像度化”とも言えるかもしれない。
インスタントフィクションを見ていると、表示された情報はテキストのみで、ある意味で”低解像度”だけど、そこからでてくる解釈はなんと”高解像度”なのだろうと。いや、むしろテキスト、動画とどんどんコンテンツは高解像度になっているように見えて、それはあくまで表側の話であって、それを摂取する側の体験は低解像度になっているのかもしれない。ジャンクフードってやつか。ときにはジャンクも必要ではある。
うーぬ、まだまだうまく言語化はできないが、最近こうして”テキスト”に帰ってきている自分と”低解像度”という言葉がいまの脳内でリンクしているのだろうな。昔からずっと思っている「インプットとアウトプットのバランス」の話なんだきっと。
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そんなことを考えていると、ふと「Obsidianいいんじゃないか」という感覚がまた芽生えていて。ただ、なんでもできちゃう系ツールに触れるときは、自分が「なんでもやっちゃうぞ」気分でやると圧倒されて腰が重たくなるから、「このツールは自分にとってどう有用なのか」というところを定めた上で使いたいところ。
うまくまだ言語化はできないけど、たぶん自分の日常を再解釈したいんだと思う。新しい情報を摂取することで新しい世界を見るのではなく、すでに手にしている情報や光景を再解釈することで新しい世界を見たいのかも。
いや、新しい世界というよりも、新しい絵の具を手にしたいのか。急にぱっと世界が開けるんじゃなんくて、「こんな色あるじゃん」と絵の具を追加したり、見慣れていたものを組み合わせて新しい色をつくってみたり、なのかなぁ。
※サムネは以前フォトウォークで撮影したもの
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