ふと、生真面目なおれが会社員をするというのは、生真面目マックスになって外側の圧が強すぎてしまうのでは、と思った。
Re: 内発と外発が重なるとき
退職してから数ヶ月間の猶予(充電期間)があるなかで、「さて次はどうやって生活費を稼ごうか」という課題が頭に浮かんでいたりする。まだちょいと先にあるというか、脳内でのそのテキストの透明度は現在は30%くらい、それが時間が進むにつれて50%、80%と濃くなっていくんだろう。
その先に「フリーランス」「バイト」「会社員」という選択肢が浮かんでいたりする。
「生活費を安定的に稼ぐ」という意味においては、この3つの中で最も安定してそうなのは「会社員」な気がする。どこかの誰かが苦労をして「0→1」でビジネスを創り、その仕組みの中の一員としてジョインできることはなかなか光栄なことである。
世の中には無数の企業があり、働く環境というのは多様であるから、ここで「こうだよね」と一括りにはできないけど、良い企業に出会えさえすれば、会社員という選択肢はなかなか魅力的ではあると思う。
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が、が、である。
どうもおれにとっての会社員という選択肢は、自分の生真面目さをブーストするような現象であるような気もしている。
そもそもが真面目な性格であるおれにとって、会社員として働くというのは、恐れ多いという感情もあるのだろうか。どこかの誰かさんがそれはもう多大な努力をして創り上げたビジネスの一部を担えるというのは、「ははぁ、ありがとうございます」というか。
そんでもって、ちょいと資本主義系の本を読んでみたおれの頭の中には「労働者はそもそも企業に”労働力”を商品として売っているんだから、決められた時間にしっかりと働くというのは当然だろう。そういうもんだから」というのもあったり。
それでマジメマシーンとしてガガガーっと一生懸命に働いていくと、どこかでリミットがくる。そこには「別にいいっしょ」「まぁ適当でいいっしょ」みたいな考え方はほぼ浮上しない。だって労働者なんだから、がんばるのは当然ではないか。
それでも生真面目な自分を調節するために、ほぼ実行しない「適当でいいっしょ」という言葉を脳内にお守りのように浮遊させてはいたりするけど。
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「会社員」という選択をとることは、俺にとってはマジメ帝国の一等住民に昇格するような現象なのかもしれない。その真面目具合は、ちょいと度が過ぎている。自分の内発的な何かが失われてしまう選択になっていやしないか。
外発的なものが巨大ロボットとして君臨し、「ははー!」となっておれの内発的なものは小さなカプセルに収納されてしまう。その内発カプセルをお守りのように日々持ってはいるが、目の前には外発ロボットである。
おれにとって会社員になることは、「内発と外発が心地よく重なる」ことの難易度を異常に上げることにつながっているのかもしれない。
気づくと「ちゃんとやって」いる自分にとっては、外発要因はちょびっとくらいがいいのかもしれない。すでに「ちゃんと」している自分に外発要因が入ってくると「ちゃんと」が「ちゃんと!!!」になり、日頃では回復が間に合わないくらいのMPの消費スピードになるのだろう。
それでも外発的なものは大事であるし、自分の世界を広げてくれるものにもなる。内発と外発、どれくらいの重なり具合が心地よいのだろうか。
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自律できるまでに他律で支えるという話でいうと、ワークショップやスクールはすごく意味のあるものなのだろうなぁと。自律まであと何歩か?という状況次第でオンラインスクールよりもリアルな場がいいときもあるし、逆にオンラインで自分のペース(ある意味で自律なのか)でやるほうがいいときもある。
おれの場合は割と自分一人で習慣化というのは作れてしまうから、考えるべきことは「そのやり方でMPはどれくらい消費してる?」という視点かもしれない。
なにかのきっかけ(火をつける)として外発的なものに頼ることは多々あるが、一度走り出すと自分のなかでルーティン化ができていく。それを真面目にやる。心地よいから。
でも、気づかないうちにMPが減っていって、回復が間に合わない。じわじわと温度を上げられて逃げ出す間もなく天国に行ってしまう鍋のカエルみたいにはなりたくない。
カエルは大好きだけど、賢いカエルになりたい。
※サムネは先日フォトウォークで撮影したもの。
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