たまに映画を15分、30分とちょこちょこ観ることがある。昨夜、寝る前に布団で映画『エイリアン: コヴェナント』を観はじめたのだけど、(たぶん)30分くらいで寝落ちした。眠気とたたかいながらがんばってみたが、眠気が勝った。夜10時頃だろうか。
翌朝の5時頃に目を覚まし、そのまま布団で続きを40分ほど観る。起きて用を足し、公園で続きを20分ほど観る。残り15分というところで帰ってきて、いまにいたる。
たまにエイリアンを観たくなる。この前は『エイリアン2』を観た。観るのは2回目、内容を忘れたくらいでまた観たという感じ。コヴェナントは2回目。わるくない、おもしろい。
ただ、個人的には『プロメテウス』が好きだ。こちらも3回くらい観ているはず。ノオミ・ラパスが主演で『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』の印象が強かったが、こっちもかなりいい。自力で帝王切開するシーンの迫力がとくにすごい。
言葉にする(言語化する)のも、経験したあと(やってみたあと)、もしくはやりながら、でいい。
そうか、年を重ねてワクワクのハードルが上がってる要因のひとつに「経験する前に言語化しちゃう」があるのだろう。経験が増えていって、レパートリーも増えていくことで「これはこういうことか」と言語化がすすみ、わかった気になってしまう。経験が少ないと、ここが入る余地が少ないから「とりあえずやってみるか」となりやすいのかもしれない。
これは、言語化を全くしないほうがいい、ということではなくて、経験する前から言語化は行われるだろうし、それが考えるってことだろう。悟りを開いているわけじゃないんだから、まったくの無の状態で「言語化するのはあとでいい」なんてできない。というかこれだって言語化だ。
なんというか、「これはこういうことね」という言語化は経験したあとがいいんだろう。いや、どうだろうか。頭がこんがらがってきた。経験前は「これはこういうことかもしれない」という「かもしれない」思考をもっておいてーーーまあ仮説というやつかーーー断定はやめる。
やっぱりよくわからなくなってきた。頭がどうも整理できない。打ち、たれながされる言葉たち。
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ここで東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』でいう訂正の話がフィットしそうだ。どんな物事にも終わりはなく、点も線も、ずっと生まれていく過程だから、断定なんてことはそうそう起こらない。どんなことでも、いつか、訂正される可能性がある。
こうだと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。こうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。きっとこれだ、いや、おれはまちがっていた。まあそうかもしれないね、でもそうじゃないかもしれない。
思考しているようで、思考を放り投げる。止まろうとしながら、流れる。解釈しながら、それを忘れてみる。絵の具の塊を、水に溶かす。
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今日は休みだ。たまたま市役所に用事がある。平日でよかった。今朝は、なんだかラッキーな気分。
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