モヤモヤとクマムシと

届いた記事を読みながら、さて何を書こうか、と考えている朝8時過ぎ。

Re: ゆらゆら、生きる

東京は今日、雨が降っている。花粉症のおれには助かることでもあるし、雨だってたまには降ったほうがいいだろう。いや、もっと降ったほうがいいのかもしれない。大切な習慣である朝の公園にいけないのは、ちょいとテンションが下がるけど。

坂口恭平さんがトピックがどんどん変わるように、流れるように書いている風景を想像しながら書いているのだけど、そうだなぁ、モヤモヤか。

— ☕️ —

「次おれはなにをしたいのか」という問いに関してモヤモヤしているし、この前観た映画『世界の終わりから』は一体なんだったのか、と感想を保留にしているのもモヤモヤだろう。最近楽しくなってきたBlenderも、実験でやってるAIツール活用したYoutubeチャンネル運営も、今後どうなるか、そんなモヤモヤがある。

もっといえば、この記事はどうなっていくのか、というタイムリーなモヤモヤだって。

そのモヤモヤを抱えながら、いつかスッキリするのではないかと期待しながら生きていると、そんなことが起こらないから、やっぱりモヤモヤする。1つのモヤモヤが消えたとしても、それは消えたのではなく、「モヤモヤ」が「モヤ」になっただけかもしれない。

自分探しで自分を見つけることよりも、その過程のほうが楽しいなんて言ったりするし、それを肌で感じたおれでもある。

モヤモヤがすっきり晴れると脳が理解できないのかもしれないし、このモヤモヤ族にはいろいろと種類があって、そこには絶対種と言われるクマムシ並みの生命力を持つ種類がいるのかもしれない。

「どうやったらこいつは消えるんだ」とあらゆる方法を試しても、消えない。もしかしたら人生は、クマムシをどう消すかという試行錯誤なのかもしれない。モヤモヤもクマムシも同じカタカナ4文字なんだから、きっと同族だよ。

— ☕️ —

数日前に村上春樹の新作を買ったのだけど、ずいぶんと久しぶりに小説を読んでいる。そしてふと、「そういえば、小説を読むことって他者の視点を想像することにつながる」みたいなことを誰かが、どこかで言っていたのを思い出す。

ビジネス書とかデザイン本とか、自分が「これ興味あるぞ」となって読むものは、自分視点になりがちな気がするけど、小説は強制的な他者視点の挿入なのだろうか。この久しぶりの物語感。

ふと、なんでおれは最近小説を読めてないのだろう、読んでいないのだろう、と考えてみると、いま書いた要素があるのも影響してるかもしれない。

“物語”でいえば、映画だってそうだ。でも、なんか自分が吸収できる要素というものを考えてしまうんだよな。撮影方法、物語の進行、登場人物の動向とか、そういうものも含めて、「活かせる視点はないか」「この物語を自分はどう吸収するのか」とかって考えてしまう。

それが文字ベースの小説となると、ちょっと速度が違うのかもしれない。映画は吸収しやすい分、”自分”を投影する余裕があり、小説は”文字”だけだから、その情景を頭に思い浮かべるのにほとんどのスペースを使ってしまい、結果的に”自分”があまり入り込まないのかもしれない。

— ☕️ —

手がとまる。次はなにを書こう。もうこのまま記事を終わらしちゃってもいいんじゃないか。もうちょっと書き足そうか。どうかしら。

あ、そういえば、この前Blenderの遊び記録の記事を書いちゃったから、サムネにまだ使用してないBlenderデータがない。いまから作らなくちゃ。

ということで、残りの記事のメッセージはサムネにたすくとしようじゃないか。

…Blender作業後…

タイトルに「クマムシ」と入れたのに、サムネにサルがいるじゃないか。どういうことだ。

※サムネはBlenderにて制作。タイトルは「さるきたる」

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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