ニュートラルでぜんぜんいい

最近じわじわと理解しつつあるのは、「つらい仕事」は避けたいが、「楽しい仕事」は別に求める必要はない、ということである。まだうまく言語化できていないから、このあたりの単語の使い方もまだまだ荒い状態ではあるが。

言い換えると、ネガティブはよくないが、必ずしもポジティブを求める必要はないということである。どっちかというと、ニュートラルで全然いいじゃんか、ということである。これは「平穏」とか「平温」につながる話かもしれない。

ちょいと前に、似たようなことを自己肯定感で考えたことがあった。「自己肯定感を高めよう」なんてことが言われたりするが、自己肯定感については「低い」はよくないが、「高い」はよいのか?という。

だって、自己肯定感が高いということは、自己を肯定する力が高いということである。そうすると、もしかしたら「自分は正しい」と自分勝手な人間になってしまう可能性もある。

20代半ばまでのおれは、自己肯定感は低いほうであった。なにかあると全部自分のせいにしてしまう。なにかあると自分で自分を攻撃するようになってしまい、ずいぶんと精神的に落ちた時期があった。その経験から自分を褒める訓練をして、いまでは自己肯定感が低いなんてことはないと思う。

自己肯定感が低いのは、けっこういろいろと弊害がでてしまうのではないか。自分で自分を責めてしまう。必ずしも100%自分が悪いわけではないのに、ネガティブなことが起きたときに自分を肯定できなくなってしまう。自分で自分を守る術ともいえる。

だから、自己肯定感については「低い」は避けたいが、「高い」を目指す必要はないのだと思う。自己肯定感、まあ普通です。低くも高くもない。それでいいんだと思う。

ネガティブはよくないが、ポジティブすぎてもよくないかもしれない。ニュートラルでぜんぜんいいんじゃないか。そういうことが自己肯定感でも、仕事でもあてはまるのかもしれない。

20代半ばで会社員をやめてバックパッカー旅をしてからは、「おりゃー!」「おー最高だー!」みたいな経験が続いていた。「仕事」と「やりたいこと」がつながっていたり、そこから「楽しい」「幸せ」という単語も続いたりしていた。「自分」という人間を100%出したとき、「社会」との接点がどこかに必ずあるはずだ、というある種の幻想をみていたのかもしれないし、それは実は幻想ではなくて、一時的でも、幸運にも、続けて起こったということだけかもしれない。

たまたま続けて起こったことが自分のなかでスタンダードになり、それがちょっとした成功体験として刻まれたのだろう。このあたりを少しずつほぐしていきたい。

「仕事っていうのは憂鬱なものである」ということも言われたりするけど、それを飲み込む勇気はない。ただ、「仕事っていうのは楽しいものである」という言葉を鵜呑みにしない心構えはできてきた気がする。だからといって「つらい」を受け取るのでもない。

最近たまたま手に取った数冊の本で、著者が「仕事」とちょうどいい距離感をもっているのがあったのもあるのかもしれない。この仕事好きです。これがやりたいことなんです。と力んでいるわけではなく、あくまで「これは仕事」と割り切っているが、同時に「自分」とも対話しながら「できること」「やるべきこと」をブレンドしている。

という感じで、そろそろ時間がなくなってきたからこの辺で。誤字があるかもしれない。まだまだ言語化は荒いだろう。とりあえず書いておくか、という感じである。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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