大晦日、だらっと書く

大晦日、今年の振り返りでもしてみようか、と帰省前に指をうごかす。今朝は、久しぶりの雨がぽつぽつ。

2023年は、3月に退職をして、半年ほど充電かつ考え事期間を経て、10月から仕事をはじめ、再始動という感じだった。

充電期間中は、次のステップの芽を探していたものの、うまく見つからず、考え方を軌道修正していった。なににワクワクするのか?という視点で探しては、ちょいと手を出して、一時停止して、次を探す。何度も書いているが、唯一みつかったワクワクはスイッチを買ってプレイしたゼルダである。

予定のない日は、2時間プレイ、休憩、また2時間プレイと合計10時間ほどやっていて、予定がある日も3〜4時間をやっていた。これを全クリするまでの4週間続けていた。夢中であった。

ゼルダを全クリした時点で、退職してから3〜4ヶ月は経っていた気がする。このあたりから「どうやら、いままでのやり方で探しては限界があるかもしれない」と感じだし、そこからだんだんと「ワクワク」「やりたいこと」という言葉から距離をおいていったように思う。

ジオラマ、刺繍、Blender(3Dモデリング)、AI活用のYoutubeチャンネル運営など、ちょいちょいやっていたことはあるが、どうも続かない。一番続いたのはYoutubeで数ヶ月だっただろうか。

そうやっていろいろ手を出して次、次と移っていくと「またそうやって続かないじゃんか」という言葉が脳内に現れるわけだけど、ここはそこそこ乗り越えたというか、最近は開き直っている感じがある。自分はそういう性質をもっているか、そうやってなにかを模索していくしかないのだ、というような。

そうこうしている間に、本棚を増やして、毎月数万円分の本が増えていく。本を買う、本を読む、本がある。これは自分の生活には欠かせないものなのだなと改めて感じる。読書がマンネリ化しようとしたときに、読書自体から離れるのではなく、ジャンルを変えて「小説」をしばらく読んでいたこともあった。これがよい気分転換になったのは、ひとつの発見だった。「読書」内で方向性を変えてみるやつ。

近所で仕事を見つけ、生活のためのお金についての心配はひとまず不要になった。とはいっても、リスクはある。来年は収入源を増やすことが課題となる。

この前、新R25でたまたまこんな動画を見ていた。

仕事を探すときに、「やりたいこと」を考えるということ自体がここ10年くらいの価値観で、以前はそうではなかった。こういうの、そろそろ卒業したほうがいいのでは?というような内容だった。

今も昔も「人はやりたいことを探してそれで生きていくべき」なんてことは思っていない。自分があくまで「やりたいこと」を見つけてなにかやるタイプだと思っていただけだと思う。

3年半会社員をして、自分探し目的でバックパッカーとして旅をして、「やりたいこと」が見つかった。そこからブログ、Youtubeと変わっていき、それも「やりたいこと」だったのだろう。おれの「やりたいこと」への信仰は、そうやってどんどん強固になり、人生の価値観の一部になっていったように思う。

「やりたいこと」をみんながみんな見つける必要なんて全然ないし、そういうのがない人だっている。それもそれで人それぞれの生き方である。

人生は、たまたまの連続。そこは狙えない。紹介した動画でけんすうさんが学生時代に事業を売却した話があった。冷やかしていった面接に、たまたまM&A担当者がいって買収されたという。「こんなの予測できないですよ。たまたまです」という話だった。

それを後付けで「これをこうこうこうしたから、こういう人生になった」とパッケージングされると、なんかすごいように聞こえてしまう。けども、だいたい「たまたま」である。

平穏と熱意を、平温で包む。最近浮かんだ表現である。これがとりあえずのこの先の指針となりそう。今までは、熱意、熱意、どこだ、どこだ、とどこかにあるはずのただ一点のマグマを探し当てるような日々だったように振り返る。そして、それが”たまたま”うまくいったようである。

自分という人間に閉じた「やりたいこと」からは距離を置こうと思っているが、そのかわりに「意義」という言葉が近づいてきてる。やりたくないことはもちろんやりたくないが、それが「やりたいこと」かどうかの判定装置ははずしておいてもいいのだと最近思う。ああでも言葉って難しい。「これには意義があるからやりたい」そういうふうにも言語化できる。

あんなりまとまらないな。まあたぶん、自分なりの成功体験の手放しなんだろう。なにかを見つけて、それを夢中になってやれば、きっとうまくいく。実際、なんどかうまくいった。ということは、これからも夢中になれそうなワクワク案件を探すべき、というような形成された価値観を、いったんほぐしているんだろう。

いきなり夢中になることなんてないし、とりあえず続けてみることで、どこかで夢中になる。そういうのもあるから「夢中になれるかどうか」は入り口の話ではない。そんな簡単な話ではないことはわかっているから、とりあえずやってみて、ということで試行錯誤をしてみて、成功体験からか「また次も同じように探そう」とクセがついていたんだろう。

クセというのはなかなかとれない。だからいまは”ほぐしている”という感じである。

『2050年を生きる僕らのマニフェスト』という本で、ベントーイズムという概念がでてきた。これは日本の”弁当”(bento)からきている。四角を書いて、それを4分割して、「現在の自分」「未来の自分」「現在の私たち」「未来の私たち」という四つの視点で考えるためのフォーマットである。これがなかなか使えそうで、最近書いてみたりしている。

自分がどうか、というもあるが、それと同じくらい「私たち」はどうかも考える。そうやってひとりよがりになりがちな「やりたいこと」が周りの人にとっての「意義」のあるものへと変わっていくのかもしれないと。

あ、あとこうやってちょくちょく書くという行為が完全に習慣化した。交換日記の存在も大きい。続ける、続けないという考え方から完全に離れていて自由な行為になっている。書くという行為が空気のようになってきたというのは、今年のひとつの達成といえるのかもしれない。なんも力んでいない。

2024年は、平温でもいいんだ、ということを言い聞かせながら、自分の価値観、周りの価値観も含めて、熱を育てていってみるかなあ。ああそうか、今までは「情熱」というのはあるとき見つかるものだと勘違いしていないのかもしれない。理屈では「そういうもんじゃない」とわかっていながら、心はそうじゃなかったんだろう。

日々淡々と、平穏を守りながら「ネツ草」という植物を育ててみるような感覚でやってみよう。熱は見つけるものではなく、育てるものだ、という理性が「当たり前だろ」と跳ね返すような言葉に、心がやっと寄りかかってきたのかもしれない。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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