朝の公園にいってスマホをみると「20%」の表示。あちゃ、昨日電源タップのスイッチをONにせずに寝てしまった。スマホにケーブルはささっていたが、電気は流れずであった。いつもやっているゲームで2戦ほどまじえたあとでポップアップが表示され、低電力モードをうながされる。
草刈り隊のひとたちに心理的に追い出されるように公園をあとにして、コンビニに向かい、PayPayで支払いをする。おそらく店長の、60代くらいの男性である。QRコードを読み取る際、機器自体をスマホにタッチする。距離感が近い。もうちょっと離しても読み取りますよ、機器同士が密ですよ、と内心つぶやく。
この距離感は、店員の年齢があがればあがるほど近くなるように思う。若いスタッフだと2〜3センチ離して読み取るが、40代、50代、60代とあがっていくうちに、最終的にスマホ自体に触れてくる。そんな勝手なイメージを持っていたりする。触れてくること自体にたいして問題はないのだが、なんとなく「距離感ちかいちかい」と思っちゃったり。
追記 20230727 16:03:あまりにも偏った見方になってしまった。スーパーやコンビニでQRコードの読み取りの距離感が近い経験を何度か実際にしたが、それはぼくがみた限りでは50代や60代の人であったことから、偏った拡大解釈になってしまった。反省した。
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昨日、芥川賞を受賞した『ハンチバック』を読み終えた。100ページもない、厚さ1センチほどのハードカバーである。ここまでスリムなハード本はひさしぶりである。カフェで紙の本を手に取り、ページをめくり、知らない単語を調べたりしながら、ページをいったりきたりして読み終えた。
ぼくは紙の本がすきだ。読むこともすきだが、それ以上にコレクター精神のような感じで紙の本を求めてしまう。紙の匂いもいい。
そんな感情がいかに傲慢で勝手か、というのをこの小説はえぐってくる。紙の本を読みながら、言葉にならない無力と反省の間のような感情をかかえながら、物語にひたった。
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著者の市川沙央さんは、『ハンチバック』の主人公と同じく難病の筋疾患先天性ミオパチーと診断されている。14歳から人工呼吸器を使いはじめ、電動車いすで生活をしながら、タブレットで執筆をしている。詳細は好書好日のインタビューがわかりやすいが、人工呼吸器の関係で、発話にはおおきな体力が必要とされ、リスクもあり、限られたときにのみ発話をおこなっているそうである。
20年にもなる執筆生活をへて芥川賞受賞にいたったのだが、その間、賞にはかかさずに応募。ライトノベルやSFなどジャンルも変えながら、多いときは年に3本書いていたそうである。『ハンチバック』の執筆期間はわずか1ヶ月、しかも別の賞への応募もあり、それと並行して進めていたとのこと。
貧乏性なんでしょうね。目の前に応募できる賞があるのにスルーなんてできない。
【芥川賞受賞】文學界新人賞・市川沙央さん 「なにか職業が欲しかった」ままならぬ体と応募生活20年の果てに
20年という執筆生活のなかで、渾身の作品が落選して心が折れてしまったこともあるという。それでも書くことをやめず、今回の芥川賞受賞で注目を浴びたということになる。ぼくはつい最近に著者のことを知ったが、それは20年という長いタイムラインの果てであり、ふと「一夜で成功なんてものは存在しない」という文字が脳内に押しよせる。
ほかにやれることがあれば、そっちに向かえたんでしょうけど、私には書くことしかない。自分にとって身体的に一番ラクなのが小説だったんです
【芥川賞受賞】文學界新人賞・市川沙央さん 「なにか職業が欲しかった」ままならぬ体と応募生活20年の果てに
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市川沙央さんは受賞会見で、「一番訴えたいのは、読書バリアフリーが進んでいくことです」と語る。人工呼吸器での発話のリスクもふまえてこの会見をみると、著者の「訴えたい」という言葉がずしんと重くのしかかる。
『ハンチバック』を読むと、自分の「本が好き」と「本を読む」の2つがスムーズにつながるのは、ある人にとってはまったく当たり前ではないことを痛感する。主人公の行動、心情を通して身体にしみこんでくる。その物語を紙の本で読んでいる自分という存在を、にらんでしまう。
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自分の社会人になってからの16年ほどの人生は、一言に凝縮すると「あれこれやった」である。「これをずっとやってきました」という言葉とはほど遠い。会社員をして、バックパッカーをして、ブロガーをやって、会社の創業に関わって、Youtubeチャンネルを運営して、ポッドキャストをして、また会社員をした。
「これだけはほんとに苦手なんです」というものがあまりない自分は、だいたいのことをそつなくこなす傾向があるみたいである。振り返ると、やってきたすべてが中途半端のように見えてしまうこともあり、誰かがいいはじめた「器用貧乏」という言葉が呪いのようにのしかかることもあった。それを「英語ではジェネラリストってかっこよくいうのに」とぼそっと言い返す。
ひとつのことをずっとやってきている人たちの話をきくと、そこには覚悟のようなものを感じる。世間のトレンドに振り回されず、ひとつのことをやり続けている姿には、たびたび圧倒されてしまう。自分にはできない、と心の声がもれてしまう。
覚悟とは「不確定で曖昧な未来に対して、どうなっても絶対に後悔しないと最初に決め抜くための、掟」である。「最初に決めておく」という時間軸が重要である。覚悟があれば、葛藤は生まれない。
『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』109-110ページ
トレンドに影響されながらコロコロとやることを変えてきた自分の人生には、覚悟の文字がないようにも思う。でも上記の覚悟の定義文に沿って考えるのであれば、ここ最近は、この「ころころ人生」を生きる覚悟のようなものが自分に芽生えているように感じる。
そこには「長く続かない」という諦めのような感情もあるが、同時に「中途半端なことをいくつか繋げて新しくする」という意義も見出していたりする。なにも積み上がっていないように見えて、なにかしらが積み上がっているのだと信じている。
「ひとつのこと」を「人生」と言い換えれば、すべての人が「ひとつのことをずっとやっている」ということになる。「いろいろなこと」を圧縮して「ひとつ」にしてしまえば、それだって「ひとつ」である。自分の中でこの考え方が、少しずつ”言葉遊び”の域を超えてきている実感は少しある。
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社会に対して、”自分だけ”しかできないアクションはなんなのか。これは、ときには「ビジネス」「トレンド」をも削ぎ落として考えることで見えてくるのかもしれない。「あきらめる」の意味が「明らかにする」のであれば、そこには諦めだってからんでくるだろう。それはけっしてネガティブなことではなく、自分の心の色をちゃんと見つめられるようになるための行為だろうと想像する。
36歳、まだ人生は折り返していない。「ころころ人生」を生きる覚悟を強めながら、「やりたい」を「やるべき」に、活動エリアを「波」から「砂浜」に移行していきたいところである。
※サムネはUnsplashより
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