ネトフリの『LIGHTHOUSE』をすべて観終えた。全編を通して、なにかしらの吸収したい言葉があるような、そんな番組であった。特に、最終話(第6話)でオードリーの若林がぽろっとはき出した言葉が印象的だった。
この番組の副題は「悩める2人、6ヶ月の対話」である。星野源とオードリーの若林が定期的に会って、(プロデューサーにお願いされた)1行日記をお互いに読み合い、語り合う。両者とも本業はありながらもエッセイ本を出してきたのもあってか、言葉のチョイスがおもしろいし、そもそも親交があるからか口調もいい意味で軽い。雰囲気は軽いのに、前のめりに聴いてしまう。あわよくば自分を重ねたくなる言葉がでてくる。
そして、最終話で自身の今までの活動を俯瞰して眺めた若林が、印象的な発言をする。一語一句そのままということではないが、こういう発言である。
「海で、なんかでかい、アミューズメントで、足で漕いででかいのが回ってくみたいのあるじゃないですか。あんなんでおれ、沖でめっちゃ漕いでんだけど、『お前の進んだ距離、ほぼ潮の流れだよ』そんな感じするんすよ。もがいたけど、この動力というよりは、周りの人の縁とか風と潮の流れでここまで来たみたいな。」
「でも、漕いでないとたぶんダメなんですよ。『(俺は)こんなもんじゃない』って、(俺は)こんなもんなのに、漕いで、結局風に流されていくってことが続いていくんだろうなって。でも、漕ぐしかないんだよな。めんどくせえなって思いますね。」
※( )表記内は補足として加えています。
そこに星野源が「めんどくせえですよ。生きててめんどくせぇって思う。」と返す。
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この「生きててめんどくさい」というのを仲のいい間柄のふたりが笑いながら話しているのが印象的だった。まじめな顔で「生きててめんどくさい」と言われたら、そりゃ深刻だ。心配になってしまいそうである。ぼくの場合は「生きるってデフォルトで大変というか、なにが起こるかわからないよねえ。思い通りになんてほぼならなそう。」とかって言い換えそうなものだが、それをこのふたりは「生きるってめんどくせえ」と笑顔で通している。
番組を成立させるためのエンタメ性は当然意識しているんだろうけど、それでも『LIGHTHOUSE』には、星野源とオードリーの若林が楽屋裏で、オフカメラでしゃべっているのをのぞき見しているような体験がある。
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自分で考えて、自分で選択をして、行動をする。それが大事なことは言うまでもないが、それが潮の流れ自体を生み出すことってほとんどないのではないか。潮の流れを生み出すぞ!という気合い自体は大事かもしれないが、それが実際に可能であると思うことは傲慢で、「潮の流れを生み出すぞ」という意志や気合いと「潮の流れを生み出せるかどうか」という事実は、まったく別物として分離して考えたほうがいいのかもしれない。
精一杯、ひたすら漕ぎ続けることを前提とはするが、それでできることはたぶん限られている。他者との関わり合いや外部環境などの不確実なもの(風や潮)はそもそもコントロールできないが、それに乗っからないと遠くへはいけない。後付けで「ほぼ風と潮の流れだったんじゃないか」というと謙虚さのようにも感じるが、これは謙虚でもなんでもなく、そもそもほんとうにそういうものなのだろうなあと。
以前、社会の流れなどを「海」に例えて「たまには砂浜にいけるような距離感がほしい」と思ったものだが、現状の社会では、海から離れるというのがそもそも現実的ではないのかもしれない。そんな客観視点が存在するという考え方が傲慢なのかもしれない。いま『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(宮台 真司)を読んでいるのもあってか、このことを余計に感じる。
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