爬虫類の脱皮と気晴らし

桃鉄の100年プレイをはじめて70年目、資産が10兆円を超えた。もう現金が1兆円になっても驚かない。ライバルだったようきひ社長と一時的には競っていたのだが、あるとき彼女にボンビーがついているとき「キングに!カード」を使い、キングボンビーになって彼女は借金3000億円を背負ってしまった。さすがに気の毒になってしまい「ごめんな」と思いながらプレイする日々が続いている。彼女が物件を買うたびに「おお、その調子だ」と応援している。おれはねじまがったひどい人間なのかもしれない。

Re: 自分になる進化というより、自分を取り戻す脱皮

爬虫類は、死ぬまで脱皮して成長し続けるという。見た目ががらっと変わるのが「進化」だが、脱皮だと変わらないままだ。進化の回数は限られているだろうが、脱皮の回数は限られていない。そう考えると、爬虫類はーーー両生類のカエルも脱皮はするがわかりやすいような”皮を脱ぐ”感じではないーーー自分のままでいながら、永遠と成長し続けるということになる。

ヒョウモントカゲモドキを昔飼っていたのだけど、彼ら彼女らは脱皮の皮を自分で食べてしまう。「ただの自分」になることが脱皮であるとするならば、そのとき、同時にその皮を食べているのかもしれない。その皮は、見送ると決めた”昔の自分の一部”であるのだろうか。それを捨てる(放置する)のではなく食べることで、「許容」と「別れ」の間を縫っていくのかもしれない。

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今朝ふと思ったことがある。「気晴らし」と「まじめ」の関係である。気晴らしがヘタだとまじめだと思われるような気がしてきた。実際、おれはよく「まじめだね」と言われるのであるが、それは気晴らしがヘタであることも関係しているように思う。もしくは「気晴らしがヘタ」だと見えている可能性がある。

いまはストレスフリーな生活ということもあって、気晴らしといえばゲーム(桃鉄)くらいである。まあ、ちょっと散歩するとかもある。会社員時代は、コンビニでビールとお菓子を買って家で映画を観たり、銭湯に行ったりしていた。

ただ、映画を観ているときは「なにか得られるものはあるか」と意識していたり、銭湯でもなんやかんや考え事をしたりしている。銭湯はPCのメモリ解放みたいな行為である。それで、また考えることができる。

一方で桃鉄をするときは「なにか得られるものはないか」と考えたりはしない。純粋に暇つぶしとしてやっている。これが一番気晴らしっぽいのではないか。とはいってもスイッチを買ったのが去年だから、それまではゲームからは離れていた。おれとしては珍しい気晴らしレパートリーとなっている。

「気晴らし」というと、考えるべきことなどを全部横に置いて「まあいっか!」とあっけらかんと脱線するイメージがある。いや、もちろんそこにはグラデーションはあるのだろうが、おれはこの「まあいっか!」とやるのがヘタのようである。

まあ、ヘタと言いながらも「うまくなりたい」と思っているわけではない。ただ、この側面が「まじめだね」と言われる要因にもなっているように思う。

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「あの人にみたいになりたい」という同化をめざす試みは「憧れ」だと解釈しているが、自分になる/取り戻すために憧れは持ち続けるものではない。憧れている以上、それ以上にも違ったものにはなれない。二番煎じ、まがいもので掴む地位や金や名誉になんの面白みがあろうのだろう。

ふと、マーケッターの森岡毅さんが言っていた言葉が浮かんだ。なにかに憧れているということは、その人は自分にないものを持っているということ。だから、「憧れ」にはなれない。なれないから、「憧れ」る。そういう話だったと記憶している。

おれは、誰かのファンになったことがない。その人の作品や価値観を好きになったりはするが、「ファンです」とはならない。「会ったらサインほしい!」とはならず「飲んでみたい」になる。あ、でも、panpanya先生のファンではあるかもしれない。でもそれは、素性が明らかではないことでのミステリアス性もからんでいるだろう。そうだな、、、panpanya先生に会えたら、サインはほしいかもしれない。でも憧れているわけではないんだよなあ。やっぱ、panpanya先生とも飲んでみたい(ととりあえず書かせてくれ)。

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承認欲求、まじめ、ファン。そんな単語を見つめることで、自分を解明しつつ、「ただのえり」になっていくのだろうか。あと最近、なんか「落ち着いてきたな」と感じているので、この「落ち着いた」現象の解明にもいそしんでいる。最近ワクワクのハードルがあがっているのは落ち着いてきたからなのか?と考えたりはしているが、この辺りは入り口に立ったばかりで言語化がはじまったばかりである。

p.s. 反応しつつも無鉄砲にあれやこれやと書いてしまった。そして最近、日記が届くとさっと返している感じだ。たぶんいま自分のなかで「書く」シーズンがきているのかもしれない。もちろん、急かすつもりは毛頭ない。それはジャミーもわかっているだろうから、こうして好き勝手書いているのがある。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』は確かにまた観たいと思った。が、少々長い映画だったな確か。

そういえば最近『静かに生きて考える』という森博嗣のエッセイを読んだのだけど、そこで「悩みがあるのはいいことだ」とあった。悩みがあるから前に進める。解明すべき問題があるから生きていられる。ああ、たしかにそうだと思いながら、ものは考えようだなあと思った。

おれ、ちょっとp.s.の使い方が雑じゃないのか。書き足りないことをただ書いておくスペースになっちゃって、ノートの端っこじゃないんだから。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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