『スター』がおもしろくなってきた。一方は映画監督を、もう一方はYoutuberになる。この二人の主人公の葛藤の輪郭が見えてきたように感じた。映像と動画、とも言えるかもしれない。ときおり登場人物がはなす言葉を読み、「動画」を多少なりともつくってきた身が「うんうん」と、同意するでもなく何度もうなずく。少し背中を伸ばし、目線を戻し、その文章をもう一度読む。
こうやって書きながら、脳内にひそんでいた「本の感想は読んでから」という”決まり”になりきれずにうろついていた言葉が、少し溶ける。読み途中だけど、感想書いたってええやん、と。
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数日前から、『月と散文』でエッセイを、『ボッコちゃん』でショートストーリーをちびちび読んでいる。又吉の思考を、星新一の世界を、5分もあればのぞき見することができる。読み終わることを達成ととらえていたのに、この2つの本では残りページ数がそのまま「快楽、あと残り○ページ」と表示されているように感じてきた。
今までもエッセイ本や小説は何冊か読んできたのに、ここ最近の読書体験はどうも違う。それは「物語を書いてみたい」という欲求がちょっと大きくなっているのが関係している。昨日書店にて気になっていたエッセイ本を開いてみたとき、「なんか文体がなぁ」と感じた自分がいることにおどろいた。今まで自分の脳内で「文体」が「好み」に接続されたことはなかった。ブログやらなんやらで、自分自身が書くことはあったのに、不思議である。
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特に理由はない、ただ学習したい。そんな欲が強い自分がビジネスや経済、人文系の本に手を伸ばすのは、すっと理解できる。実際に体験することはもちろん大事だが、自分の人生の時間は限られている。数千円、ときには数百円で他者の学びを(擬似)体験できるというのは、コストパフォーマンスがよすぎる。
いままでの読書は、”コスパ”の意識が入り込んでいたのかもしれない。Youtubeで見る動画は20分超えの経済系のトーク番組が多くなっていったのもあるし、これはポッドキャストも同じである。日々摂取するコンテンツは、そんな傾向を強めていっている。
今まで自分が書いて、撮ってきたものの多くは「わかりやすく」という指針が強かったのだろう。事前に準備なりリサーチをして、情報を構造化して、わかりやすく並べる。ここでつまづくかもしれない、という箇所を見つけ、肉付けしていく。そこには、ブログでの出会いで「これならいくらでも準備できるぞ!」と感動したことも反動としてからんでいる。伝えたいことを、できるだけわかりやすく伝えたい。誰に気づいてもらわなくてもいい自己満足なこだわりをそこに潜めつつも、「わかりやすく」が主題としてかかっていた。
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それがひとたび「物語を書いてみたい」という欲求が顔をだすと、小説やエッセイをまったく違う目線で読めている自分がいる。脳内では「ずるい」という言葉がときおり顔を出す。物語って、ずるい。おれもやってみたい。ずるいずるい、と。
人が小説を書いている理由には「書かないと生きていけない」から「商業的に売れたい」という割り切ったものまで、いろいろとあると思う。そして「ずるい」が「うまく立ち回る」という意味なら、これは適当な言葉ではない。それでもぼくは「ずるい」となぜか思っている。
たぶん、そこにはいままで何度も「書く」をやってきたのに、見つけられなかった領域への気づき、「え、そこにずっとおったん?だったらいってよ」という不満も混じっているように思う。自分の中で「書く」という行為の先にある選択肢が、ぜんぜん一部しか見えていなかったことに、いまさら気づいたような。
自分のことを「妄想が好き」ととらえていたながらも、他者の妄想には無関心であったのかもしれない。読んでいたのは実は妄想だったのに、それが「学習欲」に支配され、単なる情報に見えちゃっていたのかもしれない。いまは、妄想を妄想だととらえられるようになったのかなあ。
妄想を出力することにおいては、「書く」が一番速い。速いからといってまったく簡単なことではないだろうけど、「やったことある」と思っていたものがグリッチしながら「やったことない」ものに変わろうとしているこの脳内現象は、なかなかよいものである。
※サムネはUnsplashより
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