自分のなかに残す解体の余地

近所のカフェの仕切り版がなくなって「おぉ、なんかスペース広くなったな」としばらくあった圧迫感を感じたりもしていたし、確かに駅を歩いているとポツポツとマスクをしていない人を見かける。といっても、30人に1人くらいだろうか。

おれは花粉症というのもあって、まだまだマスクを手放していない。「ぼちぼち花粉も減ってきたかな」とマスクを外してみるとクシュン!と「まだ早かったか」という感じである。

Re: 顔が見えるよろこび

確かに、これだけマスク生活が続いてきた(まだ続いているとも言えるが)ことを考えると「顔が見える」という現象の珍しさが増しているかもしれない。

おれの場合は、朝の公園への行き帰りの徒歩のときとかに、なんとなくマスクを外して歩いていると「なんか足りないな」という感情がでたりする。「顔が無防備じゃないか」みたいな思考があったり。

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習慣というのはすごいなぁと改めて思う。最初は「やろう」とか「やらなきゃ」とかそういう感じではじまって、気づくと脳が省電力化されて、なんの労力もなしに自然に体が動いていく。

そういう習慣を一旦解体するためには、外部の力を借りるのが良いのだろうか。

自分主体で暮らしていくと、習慣化した行動は脳の中でライトニング並みの速さで(勝手に)反応を起こしちゃうようだから、そこに良い意味での”黒船”として外部刺激を入れる。

知らない場所を散歩してみたり、普段は行かない都会を歩いてみたりと自力で行動パターンを崩してみたりもいいのだけど、これはなかなかの意志が必要かもしれない。コンフォートゾーンから出るという話でもあるから。

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毎日決まったことが起こることに心地よさを感じるルーティン好きの俺にとっては、ある意味でそこに”解体の余地”を残しておくことが大事なのかもしれない。

いつもの安心感を感じつつ、例えば友人から連絡が来たり、思わぬ情報が飛び込んできたり、そうした外部の反応に自分はどう反応を返すのか、という。

“解体”というとちょっと大掛かりになってしまうから、そうだな、うーむ、拡張性の余地かもしれない。

色々なソフトウェアにプラグインとかアドオンとか拡張機能があるように、自分にだって世の中にある無数の拡張機能を搭載する余地を残しておくことが、自分を驚かせることにも繋がるのかな、と思ったり。

もっといえば、そこに”身体性”がともなうことが、内省欲の強い頭の中グルグルしがちな自分にとっては大事なのかもと思ったり。

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そんでふと、「面倒だと思ったらとりあえずやる」という言葉も浮かんだり。

なかなかのモヤがかった内容となった。

※サムネは昨日のフォトウォークで撮影したもの。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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