「自分の頭で考える」

おれは勘違いしていたのかもしれない。自分の頭で考えることは、もしかしたら自ら可能性を閉じている行為だったのかもしれない。

スマホ時代の哲学』がなかなかおもしろい。半分ほど読み終えた。この本では、自分の頭で考えることよりも「他者の頭で考える」ことを推奨している。厳密には、他者の想像力を借りてみる、みたいな。

当然ながら、ひとそれぞれ物事の捉え方が違う。言葉の定義も違う。例えば、ぼくは「内省」という言葉を「一度立ち止まって現状把握を行い、必要に応じて過去の出来事も振り返り、自分を客観視して共通点などを探し、進行方向としてのコンパスの向きが合っているのか確認、必要であれば修正する」みたいな意味として使っている気がする。

でも、ある人にとっては「内省」という言葉は反省に近い意味かもしれないし、モヤモヤを吐き出す行為に近いかもしれない。

さらにいえば、哲学者なんかは「社会」とか「希望」とか何度も聞いてきた「それね」と反射的に理解してしまうような言葉を独自の定義で使用する、という。その人なりの世界観があり、そこでは慣れ親しんだ言葉も違った反応を示している。

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例えば、この本で「孤立」「孤独」「寂しさ」という3つの言葉の定義の違いの話がでたりする。

孤立 :ひとつのことに集中している状態
孤独 :自分と対話している状態
寂しさ:色々な人に囲まれているのに一人ぼっちだと感じ、他者に依存してしまう状態

「孤独だから寂しいんじゃないの?」とか「孤立と孤独って違うの?」とかって思っちゃうところだけど、それぞれには異なる意味が与えられている。

なにかにガガーッと集中するためには孤立が必要だし、内省するためには孤独が必要かもしれない。「SNSで幸福度が下がっている」みたいな話があるけど、それは他者の(ときには作られた)人生を随時みることでの比較が日常茶飯事になり、寂しさにつながるみたいな。

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本を読みながら「そうか、俺は”自分の頭で考える”ことを聖域のように捉えていたのかもしれない」と思った。そもそも、こうして再び文章を書くようになったのも、自分の頭で考えるためでもあった。

ただ考えてみると、自分の頭というのは限界がある。本を読んで、映画を見て、人と話して「そういうことね」と自分なりの理解に落とし込みたくなってしまうのだけど、そこには著者、製作者、相手の意図をちょいとねじ曲げて理解してしまうような、単純ではないものを簡略化してしまう危険性だってある。

最近だったら切り抜き動画とか縦型動画とか、いかにシンプルにするか、短くするか、みたいな流れがあって、コンテンツの受け取り手が「難しい」と感じないような、インスタントな反応を引き出すものがあふれている。まぁ、こういうエンタメ動画も好きだから見るけども。

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この本を読みながら、自分の中での「自分の頭で考える」という言葉の威力が少し弱まった気がする。さらにいえば、自宅にあるたくさんの積読本への印象され変わりそう。

ぼくはどうしても「自分にとって」という視点で読書しがちだった。というのも、「自分なりの美的意識で世界観を創りたい」というのがあるから、日々消費するコンテンツは”自分にどう役立つか”という視点になりがちだった。ベクトルが自分に向いている。

そのベクトルを一旦平行にして、他者の想像力の枠をつかってみる。自分の中に他者を住まわせることで、「自分の頭で考える」では得られない、別の世界を見てみる。そんな風に考えてみると、「他者の頭で考えることってエキサイティングじゃん」と。

これから本を読むときは「一旦この著者の想像力を借りて読んでみよう」という気持ちで読んでみるか。ただ、自分の妄想を具現化するような作品作りに近い行為をするときは「自分の頭」で妄想を放出したいところ。

他者の頭で考えるっていうのは、思考の旅行に近いのかもしれない。「自分の頭→他者の頭」という一方通行な切り替えではない気がするし、この両者を行き来しながら想像力の枠を移動する感じなのだろうか。

※サムネはBlenderにて制作。タイトルは「どぐぅーん」

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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