今朝の公園で、なにやら蜂が鉄棒の下の穴をごそごそとやっている。すぐ横には、その蜂と同じような形をした脱皮の殻がある。セミではない。その蜂の抜け殻に見える。蜂って脱皮するのか。調べてみたら、成虫になるまではするそうだが、それ以降はしない気配がある。
「それ、キミの抜け殻?」とちょっと近寄ってみたら、その蜂はす〜っと上に飛んでいった。気配を感じたのだろうか。気流の変化が起こったのだろうか。ベンチに戻ると、またす〜っと戻ってきた。どうやら、その小さな穴でやるべきことがあるらしい。へ〜、と忘れて10分ほど経ったら、そこにはもう蜂はいなかった。
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『水木しげるの遠野物語』を読んでいる。併せて町田康の『口訳 古事記』も買った。遠野物語も古事記も読みたい、というときに「ちょっと片方は軽い感じで」ということで、漫画を選んだ。両方活字はちょっと重たい気がした。
2コマで終わるほどの短い話もある。間にはエッセイもあったりする。いま半分ちょっと読んだところだが、カッパはおっちょこちょいというか、愛くるしい感じがした。座敷童は精霊ということであった。神話のような話もあるし、ある男がクマに遭遇して生き残った、みたいな現実味のある話もある。ザシキワラシ、カッパ、オシラサマが遠野三大話らしい。オシラサマは、蚕の神、眼の神、農耕の神など、言われているそう。
こういう神話を読むときは、自分にとってはコンフォートゾーンを出るか出ないかの境目である。おばけは勘弁してほしいが、妖怪は割と大丈夫な気がしている。それでも境目ドキドキである。妖怪話は、子供に正しい生活習慣を教えるため、というのがあったりするから、読みながら「未知」と「現実」をうようよできる感じがあって、それで読めるような気がする。
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話は変わるが、最近は「ビジネス」「効率的」「成功」という言葉からは好奇心が遠ざかっているように感じる。まあ、一時的なものではあるかもしれないが、そういう本を買わなければ、Youtubeでもそういう類の動画をぜんぜん見ていない。
もしかしたら、自分なりの根っこ探しなのかもしれない。内省などで自分の根っこを見つめる、探す、言語化するみたいなことはするけど、ある意味で「外部」の情報でこういうことは、あまりしたことがない。わかりにくいというか。
神話はストーリーでもある。ここに好奇心が寄っているのは、小説を何冊か読んだのもあるかもしれない。インプットを小説に切り替えて、「物語」という形式をもうちょっと迎え入れられるようになり、結果として神話にも寄せれるようになったのだろうか。小説で準備運動、神話で本番。そういうことなのだろうか。
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ぼくは大阪で生まれたが、育ちは千葉県である。でも、幼稚園は上海、中学はサイパンと、同じ場所にずっと長くいた、という感覚があまりない。育ちは船橋市だが「地元は船橋です」というのは、なんかしっくりこない。「地元」という言葉を使うとき、そこには愛着や誇りのようなものが含まれているように感じる。それが良くもわるくも、ぼくにはあんまりないのだ。
そういうのもあってか、ある意味で他人事のように、無責任に、他の地域の文化を知りたくなる、そんな好奇心があるのかもしれない。東浩紀さんの言葉を借りるならば”観光客”のように、いろいろと知りたくなる。バックパッカーでは、そのグローバル版をやったようなものである。
地元に住んでいる人の知識や経験には、もちろん到底かなわない。ぼくが調べたり、そこに行ったとて、掘れる深さというのは、たかが知れている。でも、そういう浅い穴掘りを深い好奇心でやってみたい、そんな感覚があるのかもしれない。どこかに定着してぐぐっと深く掘るのではなく、浅くいろいろと掘ってみる。
いや、もしかしたらいつか「ここで深く掘りたい」というものが見つかるのかもしれない。
※サムネはUnsplashより
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