2020年に芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』を読み終えた。著者の宇佐見りんは、受賞者の年齢としては綿矢りさ、金原ひとみに次いで歴代3位の若さだそうである。
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」という、なかなかの文章からこの小説は始まる。人生で「推し」という言葉をほぼ使ったことがないぼくからすれば、まるで異世界をのぞいているような感覚であった。
バイトのお金をすべて推しのために使い、ネットでも発信することで、ある意味で推しの代表者のひとりとも映る主人公ではあるが、「推しに会いたい!」というような感じでもない。それでも、推しが生きるための糧となっている。
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『コンビニ人間』『ポトスライムの舟』『ハンチバック』『火花』『推し、燃ゆ』と立て続けに5冊の小説を読んで感じるのは、脳内に入り込む情報がビジネス書とはまるで違うということである。同じインプットでもビジネス書は「文字」として、小説は「誰かの景色」として自分の脳内に格納されている。しばらく小説を読んでこなかったのがあり、これが新鮮である。
こうしてブログに感想みたいなものを書くことで、感じたことが結晶化され、脳内で取り出しやすい位置のタンスに入っていく感じもする。たぶん、自分はこういうふうに一旦、言語化してみないことには記憶が薄れてしまう傾向もあるのかもしれない。
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昨日、夕飯を食べながら映画版『火花』を観ていた。ネトフリのドラマ版もあったが、この2つのサムネが横に並べられ、映画版では主人公の先輩の神谷さんを桐谷健太が演じているとわかり、「うわー、適役すぎじゃん!」と映画を選んだ。
そうめんみたいに細いパスタを食べながら映画をみていると、原作の小説とはちょこちょこ違うシーンがある。よくある話だし、ドラマよりもさらに圧縮されてるんだし、そりゃそういうのあるだろうと思いながらも、「え、そこそんなにさらっと流しちゃう?」と思ったりして、夕飯を食べ終わった後15分ほどみていたが、みはじめてから60分ほど経過したところでスペースキーを押した。
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ずいぶんと昔に友人と『ノルウェイの森』を映画館にみにいったことがあった。その再現度はなかなかすごいものがあったが、同時に、それを映像でみることにすごく違和感が残り、横の友人と「出る?」となって退出した。いままでの人生で映画館を退出したのは、これが唯一である。
そのとき、文章と映像はぜんぜん違くて、そのまま映像にしてはいけないんだな、と思ったものだが、今度は映画『火花』をみながら原作と違う点があることに違和感を示す自分がいる。まじで矛盾している。なんやねんおのれ、と自分に言いたくなる。
まだぜんぶは見ていない映画『ノルウェイの森』『火花』の感想を言うつもりはない。いつかちゃんとぜんぶ観たい。そのタイミングはどこかでくるだろう。みはじめたことによって「みてない」から飛び立った感情は、途中でやめたことによって「みた」には到達できず、「みた」の引力に微量に引っ張られながら、かりそめの中立性を保ってぶらんぶらんと漂っている。
そういえば、小説『火花』はまだ消化できていない。『推し、燃ゆ』だって消化できていないと思う。そんな未消化を抱えつつ、次の小説を読む。次は三島由紀夫の『命売ります』を予定している。
※サムネはUnsplashより
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