この前、近所の駅にいったら新年のマーケット的な屋台がずらりと並んでいた。そこに、シリア料理があった。
シリア料理である。「これはめずらしい」とお店に近づくと、店主に日本語で「マフラーいいですね。アラブですね」と言われた。そのとき、10年前にバックパッカー中にモロッコで買ったシルクのマフラーを巻いていた。
モロッコで買ったのだからアラブ風なのはそうだとは思うんだが、そんなこと意識したこともなかった。今まで一度も「アラブですね」なんて言われたこともない。そもそも、「それアラブですね」という反応に出会うには「おれが」「モロッコで買ったマフラーを巻いて」「日本で」「中東出身の人と話す」ことが必要である。このマフラーを巻いて俺自身が中東に行ったら、マフラー自体がありふれた存在になるので「アラブですね」は引き出せない。
なかなかの低い確率の中、それは近所の駅で起こった。買ってから10年の時を経て。みる人のレンズが変わると見え方が変わるのだな、という体験であった。
Re: 悪魔元年
『DEVILMAN crybaby』はおれも数年前に見た。手書き風なタッチがよかったし、なにより救いようのないあの雰囲気が好みとマッチしていた。ハッピーエンドに「そんなうまくいかないのではないか」と切り返してしまう精神を持つおれにとって、あの作品はなかなかのパンチであった。
そういえば最近、『笑ゥせぇるすまん』の文庫漫画を買った。新年に調達した本のうちのひとつである。漫画もおもしろいのであるが、「ドン!」のシーンなども含めて、あれはアニメになることでさらにパワーアップした作品なのだなあと感じた。
最近、「散歩漫画」というジャンルがおれに合っているような気がしてきた。そういうジャンルはないとは思うが、つげ義春、panpanya、斎藤潤一郎と好きな作家の作風に共通しているように思う。
つげ義春の世界は、まだまだちょっとよくわからないところがあるが、わりと好きである。それはもうものすごい熱弁でつげ義春の魅力を語っている人がいたりするから、食べはじめてしまったスルメのように、ちょこちょこと作品に触れていきたいような感じである。
3者の作品に共通するのは、たぶん散歩とか放浪とか私生活とか、だろうか。わかりやすいプロットがあるようには見えず、そこには作家独特の”日常”が展開されていて、さらにどこか不思議な世界が広がっている。既知の中に未知を発見していく世界観のように感じる。最近読んだ斎藤潤一郎の『武蔵野』はよい味がした。
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そういえば最近(2回目)、Xで「クラフトインターネット」なる言葉がでてきていて、その影響もあってか、サイト(このサイトである)をちょいと調整した。いままでは「動画制作者です!」という感じがあったけど、そこをもうちょっと弱めて「自前の一軒家」的な感じ。
トップの映像はそのままにしておいた。ほんとはサムネとかなくしたいんだけど、まあそういうテーマではないもんでね。テーマまで変えるという労力は使いたくない。
そうそう、さっきの漫画の話に戻るが、つげ義春、panpanya、斎藤潤一郎に共通するもうひとつは「漫画をあくまで表現の手段として使っている」という点。つげ義春は印税で十分に暮らせるようになったら描かなくなった、というのをどこかで読んだし、panpanyaについてはユリイカの特集インタビューで「漫画はあくまで表現方法のひとつ」と話していた。斎藤潤一郎についても、Youtubeにあった動画で「べつに漫画が好きということではない」と話していた気がする。
そういう距離感、なんかいいなと思った。「あくまで手段」という自分のなかでなんの魅力をはなっていない言葉が、急に熱を帯びてくる。でもその言葉の意味は熱を帯びるような類ではない。知っているもののなかに、知らない部分を発見する。再発見。日常。散歩。小旅行。放浪。ゆらり。ぶらり。既知ノナカニ未知ヲ。キチノナカーニ道雄。
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