6時過ぎに起きて、顔を洗って、早々に公園へ行く。紀里谷和明監督が昨夜ツイッターで映画『世界の終わりから』の語り合いスペースを開いていたのを思いだして、それを聴きながら、いつもの公園の光景を眺める。
「音と映像は映画作りでは50%、50%なんです」という言葉が印象的だったり、パンフレット冊子付きのDVD販売の話にワクワクしたりしながら、目の前の公園の日陰が目線に入り、ふとBlenderを思い出す。日々の光景にBlenderが重なりつつある。
「今日は何を書こうか」ということも頭の片隅に入れつつ、1時間ほどで自宅へと戻り、こうして文字を打ち込んでいる。
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AIによって稼げる仕事からなくなっていくとか、知的生産系の仕事が影響を受けるとか、最近そういう内容の動画がフィードに流れてくる。自分が今までやってきたこと、これからやりたいと考えていることは大きな影響を今後受けることになるかもしれない。
ただ、テキストであったり、動画であったり、3Dであったり、そうしたクリエイティブなコトをAIがやるとプロセスをすっ飛ばして「たたーん!」と完成物だけ差し出してくるのは、どうも寂しい気がする。これは、紀里谷和明監督が今回の映画で「手垢を残すようにしてくれ」という指針で編集していたのとつながるのかもしれない。
ぼくは日々迷い、ワクワクしては、あれをやってはこれをやる。そこにつながりはあるのかと言われると”自分がやっている”というくらいのつながりはありそうだけど、無駄だってあるかもしれない。
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ふと「無駄」の語源を調べてみたら、「馬に荷物を乗せずに移動すること」と出てきた。それだとお金が稼げないからという。「駄」は荷物を乗せる馬のことを指すらしい。
お金が稼げないことは全て無駄なんだろうか。馬だって休みたい。「なんでおれは人間のために働くなくちゃいけないんだ」って思っていたかもしれない。荷物を乗せないことはある意味で馬の”労働力”を有効活用できていないから。なんて資本主義な。そうか、馬は資本か。
じゃあ、お金稼ぎにつながらないクリエイティブなことは無駄なんだろうか。当の本人が楽しんでいりゃいいじゃんとも思う。無駄かどうかというのは、外野が当て込む言葉であることが多いのかもしれない。
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そんなことを考えながら(考えていたらしい)、最近Blenderを触っている。ソフトをただいじってるときは楽しいし、「こんなことをしたい」と思ったときはチュートリアルを探してみる。
そしてそのとき、頭に「勉強」という文字が浮かび、モチベの塊が波打ちながら動いているのを感じる。自分の欲求を追うのは大事だけど、日々の鍛錬(チュートリアル)も新しい光景を見るために必要ではある。
自分にとっての「ワクワク:鍛錬」の心地よい比率はどれくらいなのだろう。ここはまだよくわからないが、自分の欲求のフローというものに敏感であることは大事なのかもしれない。
「これはどういうことだ」と理性をはさみ込むことでモチベを抑え込むかもしれないし、ときには「えいや」と直感的にやってみることが、自分を驚かすことにつながるのかもしれない。
※サムネはBlenderにて制作。タイトルは「ハリネズミ工場」
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