現在、朝の7時17分。あと40分弱で出発である。それまでは昨日半分まで読んだ『火の鳥 鳳凰編』を手に取ろうと思っていたが、書くことにした。
Re: 便利の裏側にある視覚情報の五月蠅さ、”draw”の過程や左脳性
世の中には「誰かが引いた線」というのが無数にある。それは偉大であったり、便利であったりもするが、ときどき気づくとその”線”にとらわれ、思考が腐敗しそうな感覚があったりする。
おれの場合でいうと、「ビジネス」という線である。ビジネスってなんだ?おれにはわからないし、なんとなくビジネス人間ではないという感覚もあったりする。それでも、「ビジネス」という言葉に意味が線としてまとわりついていたり、今までの自分の経験が「ビジネスはこうだ」という線を引いていたりもする。
マイプロジェクトを考える上で、ワクワクか、ビジネスか、という2つに考えてしまいがちな自分がいる。どっちを優先するべきか。それで最近は「ワクワクだ」と考えたりしていたのだけど、それは誰かが引いた線と自己経験からくる線が混じって、境界線をつくっているような気もする。
ワクワクか、ビジネスか、ではなく、ワクワクもビジネスも、かもしれない。ワクビジでいいじゃないか。ビジワクでいいじゃないか。ワジワスでもいいんじゃないか。そうやって線によって区分けされてしまった2つを溶け込ませる。
線で区切ることで、物事はわかりやすくなるし、思考が進んだようにも感じる。でもそれは、実は必要な言語化されていない感覚を削ぎ落としてしまうかもしれないし、「言葉が、思考が全てだ」という勘違いも生む。
でもじゃあ、言葉にも思考にもなっていないものをどうとらえるのだろうか。いや、「とらえる」ということって言語化だろうから、「とらえる」以前の話か。「感じる」のか。脳みそだけで考えたことではなくて、自分の体の反応を感じてみる。それを前提とした上での言語化はいいかもしれないし、そもそも言語化できないけど、なんか気づいたらこれやっていた。そういう感じでもいいのかもしれない。
そう考えていくと、言葉で思考するというのはなんと限界ありきのことだろうと思う。その有意義さはもちろんあるがーーーこうやって書いているのも含めてーーー言語化された言葉が全てだと勘違いしてしまう。
深海からなにかを浮かばすように、言葉で思考する。でも、その浮かんできたものはどこからきたのか、深海は未知だしこわいかもしれないが、浮かんできたものが全てだとは思わないようにしたい。思考するっていうのは、そもそもしんどいことなんだなあと。深海をのぞくってこわいもんなあ。
流れるように書いたから、辻褄が合わないこともあるだろうが、そこになにかがあったりするんだろう。
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