ホームセンターで植物を購入し、シェフと名付け、その日に水やりをしてから2週間が経過した。毎日水分計で土の乾き具合をチェックしているが、まだ湿っている。こんなものなのだろうか。まだ水をあげなくて大丈夫だろうか、とちょいと不安な日々。ここであげちゃうと水のやりすぎになるんだろうか。まあ、まだ育ち盛りの夏前だからいいか。
そういえば、ツイッターで「優秀な人は字が汚い」という内容が流れてきた。他にも理由が2つあったが、気になったのは字のほうだ。このことを仕事中にぽつぽつ考えたりしていたのだが、思ったのは「字が汚い=効率化」であるということだった。「汚い」とネガティブになるが「速筆」となると効率化になる。ようは、字が汚い(ように見える)人は、常に効率化を考えているということかもしれない。
シェフの「いらねえ」とおれの短編のタスク削除の話、たしかにそう引用されると、つながっていたのか。最後の短編の話は、なんも考えずにとりあえず最後に付け加えたくらいだった。なにも考えずにぽっと浮かんだものだからこそ、無意識化でつながっていたのかもしれない。
一般的かどうかはさておき、少なくとも自分に当てはまるのは、何かをつくるとき「手がつけられず放置してしまったもの」は、潔く、「なかったこと」「やらなくてもいいこと」に変換する柔軟さが必要だなあと感じる。
潔さ、か。それは、ちょいとしたタスクから大きなものまで様々だろうけど、前者であればおれもひきずる傾向はあるように思う。例えば、短編がその例。「物語を書く練習をしたい」とぼちぼちやっているが、なかなかできていない。「やりたい」が「やりたいが」になっている。他にやりたいことがあるから、それに上書きされることであまり後ろめたさは生まれていない。ただ、常に頭に浮いている。
一方で、後者の「大きなもの」だと、潔さが発揮されたりする。放置しているものでなく、ある程度やったもについてだけど。あ、話変わっちゃうか。まあいいか。
自分でいうのもなんだけど、いわゆるサンクコストというやつを無視してやめてしまうことが全然できてしまう。あくまで、単独でやったものに限るが。「こんだけの労力を出したのにやめちゃうなんて、あら、なんて贅沢な行動でしょう」とできてしまうのだ。そこには、飽き性という性格もからまっていて、「新しいことができるぞ」という興奮に向かうのもあるのだろう。
やらないといけないことは、マイナスをゼロに戻す作業だなと気付かされたんだけど、ここ数年ずっとゼロすることばかりしかやっていない気がしてきた。
これは確かにそうだなあ。それらは、本来はプラスにするようなものだったのかもしれない。それが「やらないといけない」に変わることで侵食され、卒業するための宿題のようなものに変わる。自分からの受注だったはずのものが、「昔の自分」というある意味での他人からの受注になってしまうのだろうか。
そういえば、週報をはじめて4ヶ月目に突入したのだけど、いつも目標のタスクは1件にしている。2件も3件もやれば、達成率200%、300%である。なんだか、いい気分になる。
今回はタイトルを考えるのが面倒なので、単語を並べておく。
p.s. いまはアニメは見ていなくて『ラスト・オブ・アス』を観ている。原作はゲームで、その実写化だ。残り2話。すでに大量に存在するゾンビジャンルだが、その原因が菌類というのはおもしろい。年季の入った舞茸が顔に生い茂るようなゾンビの顔は、怪物っぽさもあり、華やかでもある。
そういえば最近、ゆる言語学ラジオの視覚思考者の回を聴いた。おれは視覚思考の傾向があると前から思っているが、一方でここ10年くらいはブログや動画と「書く」「解説する」という言語化をやってきたように思う。最後に水彩画を描いたのは、おそらく20代半ばのバックパッカーに行く前だ。そう考えると、もしかしたら本来は視覚思考のおれが社会に適合するために実は苦手な言語化をやってみているという側面があるのかもしれない。そのおかげで、言語思考も視覚思考もそこそこできるようになっているならうれしいものだが、いまだに会話というのは苦手である。
読書では、寝る前に『悲しき熱帯』をちょびちょびと読み、仕事のお昼休憩に小山田浩子の『工場』を読んでいる。小山田浩子は改行をしないスタイルで、ページにぎっしりと文字がつまっている。読書にリズムが生まれにくく、そのせいで読むのに時間がかかるのだが、リズムがないからこそ「日常」という風景があぶりだされ、そこで起こるささいな出来事が不思議に、滑稽に見えてくるのがある。
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