「書く」ことは思考の重みづけである

そうか、おれは脳内に散らばる無数の”思考”に重みをつけるために「書いて」いるのか、とふと今朝思った。

AIのモデルには、そのアルゴズムにおいて”重みづけ”というのがあるらしい。大量のデータを学習したうえで、どれを軽く、重くするか。重要度のようなものだろう。

おれは日々考え事をしたいときにノートに「書いて」いる。文字通り、手書きで書いている。いまこうしてキーボードを叩くのではなく、ペンを取り、ノートを開き、手を使って、フィジカルに書いている。でも、そうして書いたノートの内容を読み返すことはほぼない。読み返したいものは、デジタルに保存しておく。そっちのほうが利便性が高い。デジタルすばらしい。

が、それでもなぜおれは日々「書く」のか。フィジカルに書くのか。それは、脳内で乱雑になっている思考を整理したいからである。具体的には、どんなテーマや単語、方向性を重要と考えているのか。それぞれに重みをつけたいのだ。

ざらざらっとノートに書いていくと、なんとなく思考がまとまったりする。散らばっていたものが1つのテーマに集まったり、「あ、そういうことか」とひとつの考え方に気づき、その重みが増す。

ノートに手書きで書いて、重みづけができてくると、その後の脳内での思考も変わる。いままでキャッチできていなかった単語をキャッチできたりして、その後の思考がはかどることがある。

ノートに書くのは、記録のためではない。思考の整理のためであり、それはAIモデルで重みづけが行われるのと一緒で、自分の脳内でもそれをやるためにフィジカルに「書く」必要があるようである。

この思考の重みづけというのは、人によっては「書く」必要はないかもしれない。人と話すことでそれをやる人もいるかもしれない。小説や映画に触れて、ある思考の重みづけが起こるかもしれない。方法はさまざまである。

おれの場合は、まあ、社交的なほうではないし、普段あんまり人に会わないから、こうして自己完結できる「ノートに書く」という行動で重みづけをしているんだと思う。

不思議なもので、この重みづけはキーボードで打ち込んだりしてもあまり起こらない。フィジカルに書く必要があるようである。それをしたうえで、ブログを書いたり、ポッドキャストで喋ったりしていく。いや、そんなことはないかも。ブログでもポッドキャストでも重みづけが発生することはある。が、効果が高いのはフィジカルな「書く」だとは思う。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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