現在、朝6:37。今日は最高気温が一桁のようだ。アレクサがいっていた。タイツを履こうか悩んだが、いや、まだ早い。でも今日は寒そうである。風がないのが救いだ。
そうなんだよね、「飽き」の定義を深掘りしないまま「飽き性」「飽き性」と頭の中で広げて罪悪感をかかえたって仕方がない。どこかの誰かが、どこかのタイミングで「飽きる」という単語に「性」をつけて「飽き性」というどこかネガティブなパッケージングをしてしまっただけでの話である。「器用貧乏」と似ている。
ふと、俳優のイーサン・ホークの「みんないつか死ぬんだ。ゲームに負けることは確定してる。誰も勝てない。勝ち負けにこだわっても仕方ない」というようなことを言っていたことを思い出した。
つまり、飽き性ではあるが、ブレているつもりはなく、目的に向けた手段を変えただけで、その手段を変えると決断できたのは、実際にはじめてみたから、という話なわけで。これが微動もせず口で言ってるだけでひょいひょいと次やること変えているとおかしいけど、動いたうえで形を変えていくのはごくごく自然なことなんじゃないか。
これは、東浩紀さんが話す訂正の話と重なるのだろうなあと。軸はあるが、ブレる余白もある。それが訂正なのだろう。自分なりの価値観を育てながら、その幹の太さが徐々に増したり、強くなっていくなかで、生やす枝は伸び、折れ、枯れ、生まれ変わる。生まれ変わる枝から栄養を吸収しながら、幹は太く、強くなる。枝はしなやかに、まあ、折れちゃったら折れちゃったでいいよね、という飽き性質。
飽き性ではなく、飽きSHOWということにしておこう。飽きることでやることがころころと代わり、見せ物のバリエーションが増えていくのだから、飽きはエンターテイメントということにしておく。
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昨日から『自炊者になるための26週』というエッセイ本を読んでいる。映画批評・評論をしている大学教授による本であり、これが予想以上におもしろい。「毎週1章読んで、半年で読み終わる」というようなコンセプトではあるのだが、昨日3章も読んでしまった。読むスピードはおれの勝手ではあるが、なんか贅沢な読み方をしているようで感情をくすぐられている気分である。
最初はトーストの話から入る。そこから炊飯、風味の話と変わっていく。
私はトーストの魅力の決め手はにおいだと考えます。トーストすることによって、そのいいにおいを蒸気とともに立ち上がらせたい。大事なのはにおいです。
『自炊者になるための26週』18項
自宅の電子レンジでトーストができることを思い出し、今朝、さっそく食パンをトーストした。これがまあうんまい。朝食はわかめ、木綿豆腐、納豆を入れた味噌汁に食パン、最近はバナナも食べている。食パンは味噌汁につけて食べていた。
それがトーストをすると、あの香ばしいにおいと、食べたときの音、パリ、食感。うまい。もう味噌汁につける必要はない。食パン単体でうまい。なんだったら、バターとかジャムを塗りたくなった。
あと、においの話もおもしろかった。人間はにおいを嗅ぐときに、鼻先でかぐときはオーソネイザル経路というのをたどるらしい。しかし、食事のときはレトロネイザル経路に変わると。食べているときの「もぐもぐ、うふ」の「うふ」のときに鼻から空気を吸い込む。その経路にあるにおいの受容体が認識しうるパターンがめちゃくちゃ多いらしい。「においで食べる」という話である。嗅覚、犬にだってぜんぜん負けてないだぜ人間は、みたいな話もあった。
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最近、食の本に手を伸ばすことが多くなった。とはいっても、「興味あるー!」というよりは平温で関心を寄せている感じである。食事というのは毎日起こるイベントだから、自分ごとにしやすい。得た知識を実践しやすい。そういう近い距離感があるからか、自然と関心を寄せているように感じる。
最近思ったのは、プラントベース食(もしくはヴィーガン食)の実践って金がかかるな、ということである。野菜に比べて肉は高かったりするが、その肉を食べない代わりにいろいろなものを摂取する必要がある。そのなかにナッツもあったりする。ナッツは割と高い。そういうことを考えていて、おれはたまに肉を食べるフレキシタリアンくらいがちょうどいいのかもなと改めて思った。
そういえば、今朝、味噌汁にバルサミコ酢を入れてみた。なんともコメントしずらい味であった。バルサミコ酢自体はおいしいのであるが、酸味を感じる味噌汁というのは初体験に近い。ぜんぜん食べれるが、もうちょっと入れる量を減らしてもいいのかもしれない。かすかに酸味を感じるくらいの量がいいのだろうか。味噌汁には米酢が合う、という話もあった。
いままではほんとうに適当に自炊してきたけど、最近はちょっとしたガイドを片手に、食の観光実践をしている気分である。
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