最低限の生活費を把握しておく、というのは以前坂口恭平さんの本で「お金で不安なら、必要な数を具体的に把握しておくといい」というようなことが書いてあったのが影響している。お金にちょっとでも不安を覚えると、家計簿で全財産を把握し、半年から1年先くらいの状況を把握しておく。これをすると「あ、大丈夫やん」となる。
モヤモヤする、不安になる、悩む、というときはその対象についての印象が漠然だったりするから、そこをきっちり”具体的”に把握すると、「なんだ、そんなことか」となることがある。不安念の成仏みたいな感じだろうか。
Re: 喪黒福蔵を心に宿す。
『笑ゥせぇるすまん』は数年前になにかのきっかけで観たことがあった。1話が短いし、なかなか深いなあと思ったことを覚えている。
「働き方」あるいは「休み方」を考えるときのポイントは、「どんな時間が自分にとって大切な時間なのか」の凝視と「いくらあったら最低限で暮らしていけるのか」の見直しが根っこにあるものだと思う。
読みながら思ったのは、毎日同じことが起こり、ルーティンが繰り返されることに平穏を覚えることで、おれは大切な時間を”凝視”できる余裕が生まれるのかもしれないと思った。
大切であったり、ついやっていることだったり、そういうことは忙しいと気づきにくいのかもしれない。それらは自分にとって大切な時間なのに、平穏というフレームがないと、”実は”という言葉でコーティングされてしまい、「休憩」「息抜き」という言葉止まりになるのだろうか。その休憩や息抜きにやっていることが実はけっこう大切な時間であって、それを実感するにはある種の凝視や観察が必要なのかもしれない。
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いま『実験の民主主義』という本を読んでいる。4分の3ほどまできた。前回の日記で「最近本を読む手が重たい」と書いておきながら、この本を書店でパラパラとめくって買うことに決めた。X(旧Twitter)でちょこちょこ見かけて存在は知っていたのもあるが、聞き手が若林恵さんというのにも惹かれた。東浩紀さんと若林恵さんの名前があるコンテンツには惹かれてしまう自分がいる。
本のタイトルだけだとお堅いむずかしそうな印象があったが、内容がインタビュー形式っぽいので読みやすい。ファンダムという言葉はわかっていたようでわかっていなかったが、ここに「推し活」というキーワードがあわさることで解像度があがった気がした。
この本には「リテラシーじゃなくて、これからはコンピテンス」という話がある。リテラシーというと読み書き能力になるが、これだと受け身になってしまう。「リテラシーがある」「リテラシーが必要」という表現に”受け取る側”という前提が含まれてしまっているという話だった気がする。
コンピテンスは適格性、能力という意味らしい。こっちのほうが誰もが受信も発信もできる時代には適しているのではないか、という話だった。リテラシーは受動、コンピテンスは能動。みんなが作り手。
聞き手の若林さんは、以前オードリー・タンへのインタビューで「リテラシーではなく、コンピテンスを」という話は聞いていたそうだが、そのときは「よくある話だ」と軽く聞き流していたそう。その後、『実験の民主主義』の著者である宇野重規さんの著作を読んで「ようやく理解できた」と書かれていた。
これが印象的だった。「ピンときた」とも言える事例である。
日々いろいろな物事に触れるなかで、「そういう話ね」と理解したつもりでも、実は自分の脳はその上っ面しかなでていなかったりするのかもしれない。脇道にそれたり、思わぬ出来事だったり、まったく違うジャンルの物事にも触れたりするなかで、「あのときのあれはそういうことだったのか」とピンとくる、そういうコントロールできないアクシデンタルな理解はおもしろい。
「ピンとくる」予備軍たちは思った以上に脳にたまっていて、あるとき、予想外に「ピンとくる」のかもしれない。とここで、「自分の中で常に問いをもっておく」という何度も聞いたことがある言葉を思い出す。そうか、問いがピンのことか。脳内ピン。
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