今朝ベランダにて、向いにあるマンションの部屋の電気が付く瞬間を目撃しようと、何度か凝視してみたが、やはり付く様子がない。そんでもって、目を離すと明るい部屋は増えているのである。
Re: 「ちょうどいい」はバビれない。
ドゥングドーグゥドグゥ、ドゥングドーグゥドグゥ、ドゥングドーグゥドグゥ、ドュングドゥンドゥンドゥン
「バビる」という言葉を聞いて、俺の脳内では布袋寅泰の「バンビーナ」が流れはじめる。
脳からヒップへ真っ赤に飛び散る
ファンクなウイルスみたいなオマエ
最初のギターリフが指をスライドさせるような感じだから、「地点Aから対象Bに向かって行き来する」という命令が出され、ギターを弾く指が対象との距離感をさぐっている状況だとも思えてきた。
— ☕️ —
「ちょうどいい」と聞いて、おれの場合は「いいかげん」という言葉が顔をだす。こっちの言葉のほうが気に入っているわけではないが、土井さんの本を読んだ影響で、自分のなかの”定義ほぐしキャンペーン”が発動して、「いまだ!」と脳細胞たちが「いいかげん」という配列を突き出してくる。
おれはいま「好き」「ワクワク」という言葉との距離感をさぐっているのだろう。今までは、これらの言葉とすぐ隣で、もしくはおんぶするくらいの距離感で付き合ってきたものだ。だが最近は、うまくおんぶできない。近づけない。だから、「たまに会う」とか「お気に入りの友達」という感じで、距離感をさぐっている。
これは実際のところ、「いまの状況だと」という条件付きの試行錯誤であり、またどこかのタイミングでおんぶするかもしれない。体の全細胞が定期的に入れ替わる、なんて話があるが、そういう感じで状況は常に変わるものであり、「今のちょうどいい」が「これからのちょうどいい」とイコールにならないことがほとんどなのかもしれない。
つねにちょうどいいをさぐりつづける。その姿勢がないと、きっと辿りつけない距離感はあるんだろうな。あとは、その距離感に加え、対象に対する自身の「温度感」もあって、事態はさらにややこしくなる。
向いのマンションの部屋の電気が付く瞬間を目撃するには、どれくらいの頻度と時間の凝視がちょいどいいのだろうか。思考が急にこっちに飛んでしまい、「それについて考えるのはやめよう」という声が聞こえてきたところで、おわりとしよう。
p.s. 『さみしい夜にはペンを持て』は気になっていた本。よく書店で平積みされている。「書くこと」について掘り下げる感じでは最近なかったというか、考えるよりこうして書いちゃってることが多いから「まあいっか」と手に取らずであった。ただ、本に出会ったとき、「そこに既知感があるほど手に取ったほうがいい」というプチルールが自分にあったことを思い出した。ある本を手に取ったとき「ああ、これね」と感じるってことは、著者はその何倍も先の言語化をしている。ある意味で自分の思考の何歩も先をいっているかもしれないから、するする読めちゃう楽しめちゃう可能性が高い。今度、手に取ってみよう。
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