今日書店で買った本『本屋のミライとカタチ』を一気に読み終え、現在22時目前。もう寝なくてはいけない。いままでは21時過ぎに布団に入り、22時に寝付ければいいかなと思っていたのだけど、この頃、22時に布団に入ることが多くなっている。
Re: 「自分と」仕事する覚悟とか
デザイン思考とアート思考の話は、おれも思い当たるところがある。
小学生の頃に『ワンピース』に出会って漫画家になりたい!と思ったり、水彩画をやったり、ブログを書いたり、動画を撮ったり、音を録ったり、振り返るとそれらを自分の脳内で「職人」「アーティスト」という単語で覆っていた気がするが、考えてみると、社会人以降(ブログ以降)は「社会→自分」というデザイン思考が多かったのだと思う。これは、好奇心の矛先が「社会の仕組みを知りたい」という欲求になっていることにも表れている。
それが最近、ほぐれてきた気がしている。平日の仕事で生活費をカバーすることはできているけど、いってもそれは「足りている」という程度で「十分か」と言われると、そうではない。そういう意味では、まだまだデザイン思考での社会との接点を探っている最中ではある。
「ほぐれてきた気がする」と書いたのだけど、どこがほぐれているのだろう。自分で書いておきながら、いま迷子になっている。そうだ、そういえば最近、エッセイとか複数人による文章が入った本に惹かれる感情が増している気がするのがある。コスパやタイパを考えたらわかりにくい看板だけど、そこに「知りたいと知らないの間」があるのではないか、という。
ものづくりをする、表現をするというのは、他のだれでもなく「自分と」仕事することであり、その時間・状況から逃げてきたツケをこれから払っていくぜ、というのが一つの覚悟となっている。
おれも数日前に『僕がコントや演劇のために考えていること』を読み終え、ハイライトをObsidianにコピペしていたところだった。読み終えて「おれは『江里祥和』という肩書きでなにをしていくのか」ということを考えたりしていた。そこには「お金と社会」「他者」「物語創作」「読書」「デザイン」などの単語がうずまいていた。
土井善晴さんの本を読んで感じたことでもあるけど、たぶん、いろいろなことを「いいかげん」にできるようになってきたのかもしれない。いままで「社会」「社会」「社会」となっていた脳内が、「いいかげん」というプラグインによって余白が生まれ「社会」「社分」「自分」くらいになっているのだろう。デザインとアートの間、言うならば、いまのおれは「デザート思考」をしているのかもしれない。あら、なんだかおいしそう。ねむい。
p.s. 『ゴブリンスレイヤー』のシーズン1を観終え、次はなにを観ようかと検討中。
読書では、『怪物』『逃げ恥』『夢のカリフォルニア』のシナリオブックを購入した。ちょいと、脚本にも興味がわいてきている最中。海外であれば名作映画の脚本がネットにころがっているが、日本だと入手ハードルがあり、かつ「観たことある作品」となると選択肢はそんなにないことを知った。
あと、『CULTIVATE BIBLE』という4000円もする本を買ってしまった。まだ届いていない。まだ月初だっていうのに、今月はもうあんまり本を買えなくなってしまった。が、そんなことを言いながら文庫本のひとつやふたつ、単行本のひとつを買っちゃうのだろう。ひぇ。
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