「ありがとう」の距離感

読みながら、おれにとっての良いパフォーマンスが出せる状態ってなんだろう、と考えた。

Re: ダーマトゆらされない読み書き

とくに働く必要がなく「なにしたっていいぞ」となった場合にやることは、だいたい散歩と読書となる。書店にいって本を買い、読んで、考えて、書いて、また本を読み、たまに散歩をする。実際、そんな生活をここ半年近くやっているように思う。いろいろな制約がなくなったとき、自分には本と散歩が残るようである。

これは「学習欲が強い」「体よりも頭脳で考えがち」という自分の特徴にも重なる。いま目の前の世界への理解の解像度を、ただただ高めていきたいのだろう。完全に理解なんてできないけど、その理解度を高めることへの好奇心が駆動しているのだろう。

— ☕️ —

このパズルに「働く」が加わったとき、「こういう状況って楽しいよな」と感じるものがある。抽象的に書くと、やるべきことではない「やらなくてもいいこと」をしているとき、それがボーナスのような感じがして楽しいみたいな感じである。

この感覚を言語化するのは初めてに近いから、荒けずりのわかりづらいだらーんとした内容とはなる。とりあえず、要素を並べてみよう。できること、実はできること、報酬、の3つだろうか。

— ☕️ —

例えば、「サイト制作ができます」ということである会社に入社する。その時点で、「できること」であるサイト制作のスキルは「やるべきこと」に変化する。そこに報酬が発生するわけである。「できること」が入社後に「やるべきこと」に変わり、それが「報酬」にリンクする。考えてみると、まあ当たり前のことかもしれない。

そうやって働いていると「実はできること」が役立つときがある。おれの場合は、「実は英語できます」とか「実は文章そこそこ書けます」とか、そういうものである。これを求められたときにわりと楽しんでいる自分がいる。ボーナスゾーンに突入している感覚がある。おれ、やらなくてもいいのにこれやってるじゃん、なにこれ、おれえらい、おれすごい、わーい、となんか楽しい気分になるのだ。

この「実はできること」は「報酬」にはリンクしないことがほとんだろう。報酬は、入社時のできること(自分)とやるべきこと(相手)とのマッチングで決まる。その周辺にある「実はできること」も巻き込んで柔軟に報酬システムを変えられる会社は、そうそうないだろうと想像する。

というかむしろ、この「実はできること」が「報酬」にリンクすると、それは「やるべきこと」に変化してしまう。そうなると、ワクワクしないのである。この2つがリンクしないことが大事で、だからワクワクするのである。

もちろん、その「実はできること」を社内でやることになったとき、それは上司から「やってもらっていい?」とお願いされてやることにはなるのだから、一見「やるべきこと」に変化していくように見える。でも実際は、そこに一時的に近づいているくらいな感じだろう。「やるべきこと」には取り込まれない程度に近づくイメージだろうか。「実はできること」がちょっとした旅行をするようなものである。

しかもこれもいいところは、その「実はやるべきこと」は入社前には発見されていないから、その作業に求められるハードルがそこまで高くないという点がある。そもそも期待されていないことをやっているから、がんばればがんばるだけそれはボーナスになり、楽しい、うれしい、という感覚になる。

— ☕️ —

これは、「ありがとう」の距離感なのだろうと思う。

「やるべきこと」をやっているときに比べて、「実はできること」をやっているときのほうが「ありがとう」の距離感が近い。相手はおれが実はあることができることに驚いているから、相手としてもボーナスだろうし、もしおれが必要以上にがんばっちゃえばさらにボーナスである。急に「ありがとう」が近くなる。それがうれしいんだろう。ここに「報酬」がリンクされちゃうと、「ありがとう」の距離は近づきにくいのではないか。

まあ、こういうおれの特性をわかったうえで「じゃあ、これもよろしくね!」とされると、それは全然違ったものになってしまうから、これらはあくまでおれの自発性に支えられているということにはなる。予期しなかった、というのがミソである。予期せぬものだから、ボーナスだ。それで「ありがとう」が近くなる。

ちょっと話はそれるが、これは以前どこかでウーバーイーツ配達員が「めっちゃ感謝されるんですよ。それがいい」と語っていたのと重なる。ブルシットジョブの話とも重なりそうだが、どれだけ報酬に満足していても、「ありがとう」の距離が遠いと、つらくなってくるのかもしれない。「私たちはみんな人間なんだよ」という言葉がふと浮かぶ。

コンビニでサラダチキンを買ったとき、コンビニ自体とか店員さんに感謝することはあっても、養鶏場の運営者やその施設の原材料をつくっている人たちにまで「ありがとう」が届くことは少ないのではないか。こういうことを想像するために、食事のときの「いただきます」「ごちそうさまでした」があるのかもしれない。

そういえば書きながら思ったけど、「ありがとう」って「報酬」じゃあないか。最初に「報酬」と定義したけど、これは「貨幣報酬」のほうが正しいかもしれない。だから考え直してみると、「できること」「やるべきこと」は「貨幣報酬」につながるが、「実はできること」は「ありがとう報酬」につながる。

貨幣も必要だけど、同じくらい「ありがとう」も必要である。このバランスが崩れちゃうと、社会というシステムに飲み込まれすぎて、なにかが麻痺してしまうのかもしれない。

— ☕️ —

考えながら書いたから、ちょっと長くなってしまった。でも、書きながらなんか発見した気分だ。「ありがとう」の距離感、ばかにできないはずである。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

Leave a Reply

Your email address will not be published.

CAPTCHA