流れるように書き、積み上げ、凝縮し、繋がるのか

とりあえず書くか、ということで書いてる。毎日書くぞ!という感じではないのだけど、たまには書いていこうぜ、みたいな感じな最近である。流れるままに書いてみる、とりあえず。

ツェッテルカステンについてだが、文献ノートがとにかく増えていく。全体で180ノートくらいのうち半分は文献ノートという感じになってきた。文献ノートというのは、記事だったり本や動画から引っ張ってきた気になる視点やアイデアということで、自分自身の発想ではない。

要は、いまはアウトプット、なにをもってアウトプットと定義するかは曖昧な感じだけど、とりあえずは「自分で考えた」というのをアウトプットと考えてみると、それに対してインプットが多くなっている状態である。

と感じつつも、まぁこれはぬか漬けをつくるうえでのぬか床の環境整備みたいなものだから、とりあえずこの感じで続けていって、さてどうなるか、アイデア発酵のよい環境をつくれるのか、というのはもうちょっと様子見である。

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とはいっても文献ノートがやたら多い。あとでノートを取り戻す方法として索引(タグ)をつけているのだけど、これは永久保存ノートのみにしている。でも文献ノートも、こういう感じでキーワードを設定して取り戻せるようにしたほうがいいのではないか、という感じもしてきた。

Obsidianはタグを階層化できるので、「文献/テクノロジー」みたいに羅列していけば、文献ノートと永久保存ノートが混在しない形でフィルタリングはできそうな気もする。

でも文献ノートは、あくまで外部の視点である。ぬか床でいうと、なんだろう、できあがるぬか漬け自体ではなく、最初の捨て漬けでどんな野菜を入れるか、とか、そういう話な気がする。

捨て漬けということは、つけ終わったら、捨てるということである。その野菜の成分だけ絞ってぬか床に入れて、あとは捨てる。文献ノートも捨てたほうがいいのか。「絞り出したもの」というのが永久保存ノートなのか。うーぬ、ちょっと違う気がする。

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文献ノートにも段階というのをつけたほうがいいのだろうか。最初に入れる段階、そこから選定(絞る)段階、と。でもそうするとなかなか複雑な構造になる気もする。

ツェッテルカステンを考案したニクラス・ルーマンが、どのように実際運営していたのか、というところで調べていくと、「ノートのアトム化」「永久保存ノートは毎日2〜3個程度」というのがでてくる。

永久保存ノートというのは、1年後、5年後、10年後に誰が読んでも、ノート単体で完結している凝縮ノートみたいなものだという印象を受ける。こりゃ、なかなかハードルが高い。

そもそも、ツェッテルカステンは将来的に出版物をだしたいとか、一般公開という形でなにかしらの考えというのを公表したい人に向いている気がしている。実際、ニクラス・ルーマンは社会学者だし(ツェッテルカステンの思考法によって学者として認められたという印象も受ける)、そういう「いろいろ考えて発表したい」みたいな人には相性がよい感じである。

おれの場合も「いつか公開したい」みたいな欲求もあるし、人並みに承認欲求がある。読書も好きだし、なにより学習が好きである。そう考えていくとツェッテルカステンが合っているタイプの人間には見えていくるのだけど、ちょっと自分なりに気軽さみたいな構造も入れ込まないといけないような気がしてきた。

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走り書きメモと文献ノートは気軽なのに、永久保存ノートは敷居が高いのだ。一気に思考のジャンプをしないといけない感じがある。しかも短く、自分の言葉で、誰が読んでもわかるように、である。これを凝縮したブログだと考えると、毎日2個も3個も書いてられない。ちょいと敷居が高い。

この「走り書きメモ・文献ノート」→「永久保存ノート」の間の「→」をもうちょっとグラデーションにする必要がある気もしてきた。これは裏返せば自分の思考力が足りていない、という考え方もできるが、ここをちょっといじりたいところである。

そのひとつとして最近「フローノート」というフォルダをつくった。流れるように書くノートである。日記にも近い。Obsidianには標準でデイリーノート機能があるのだけど、毎日書くのは面倒なので、この機能を活用しつつ、保存先はフローノートというフォルダ、という感じにした。

走り書きメモや文献ノートは「アイデアの候補」みたいなものだけど、フローノートは長文でもよいし、どう書いてもいい。このブログみたいに流れるようにダラダラ書いていく。

これはいわば、現在の思考の可視化、かもしれない。走り書きメモ、文献ノート、永久保存ノートだけだと、「アイデアになるかどうか」みたいな文脈で切り取りがちなのであるが、その文脈から脱却することで「いまのおれの思考、どうなってるん?」というのをフローノートで実現する。

脳みそもずっと真剣に考えてると疲れるわけで、そもそもツェッテルカステンをやること自体がわりと真剣に考える、みたいになりがちである。そのガス抜きとしてフローノートを書き、「いまおれの脳はこんな感じ。あのインプットがけっこう残ってるんだな」と客観視できるような気もする。

これをツェッテルカステン内に含める必要はあるのか?というのもある。ブログがフローノート的な役割になるかもしれないし、別にツェッテルカステンでぜんぶまかなおうとする必要はないのであるが、まぁとりあえずね。

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と書きながら「文献ノートが多い」問題は忘れ去られてしまっていることに気づいた。文献ノートに入れるハードルをあげるというやり方はあるなぁ。「これいいかも」の「かも」ではなく、「これだ!」と思える視点とかアイデアだけを入れる、とか。うーむ。

なんも考えずパソコンを開いて書きはじめたが、こんなにダラダラと書いてしまった。ダラダラと書くのはてんで難しくない。そして、自分の脳に予想以上の思考が漂っていることに気づく。

さて、こういうのを500文字とか140文字とかに凝縮しろって言われたら、それがむずいのだ。凝縮ではなく、分裂させるという手もある。

とりあえず、ツェッテルカステンをやってみた感じ、文献ノートが増えすぎちゃう問題と、永久保存ノートのハードルどうするか問題がある。

いずれにしても、これは発酵である。待つ、という時間経過も考えないと。いや、考えるのではなく、放置する、みたいな感覚だろうか。脳みそに限界はあるし、できることは限られている。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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