陸上の話を読みながら、そういえばおれは短距離走者だったなぁと思い出した。
Re: 陸上短歌
といってもこの話は小学校の頃で、中学はサイパンに行った。
小学校の頃は足が速かった。運動会で2位〜5位くらいのランクだった気がする。1位ではなかった。2位かもしれない。5位かもしれない。その辺は忘れたが、要は足は速かったほうであるという認識である。
おれの運動歴でいうと、小学校はサッカー部、サイパンはスケボーに没頭、合気道もやっていたのだが、その流れで「”○○道”みたいなやつやりたい」と高校時代は柔道部に所属していた。講道館にいって試合もしたが、黒帯はとれなかった。なんとか大外刈りで1試合は勝てたと記憶している。
18歳以降は特になにかスポーツをやっていたというのはなく、三十路手前でスケボーを再開、その流れでYoutubeチャンネルを開設、という感じだろうか。
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話を「走る」に戻すと、「短距離走」というのがおれの性格にも似ているなぁと感じる。なにごとも夢中になっては、ものすごい熱量を出し、一気に駆け抜ける。そんで、バテる。
「走るは自己対話」というのは聞いたことがある話で、そういう本も読んだことがあった気がする。
社会人時代に習慣としていわゆるランニングをしていたことがあった。少なくて5km、多くて10kmくらい走るのであるが、ラストスパートはダッシュするのである。帰宅したあとの「はぁ、はぁ、はぁ」という思考がぜんぶ呼吸に持っていかれる瞑想のような瞬間が好きで、「走るは瞑想」みたいな感じでやっていた。
どうもおれはどこかでパワーをズバーっと出したいらしい。もしかしたら、脳内活動が好きなおれの性格として「たまには脳をシャットダウンしようぜ」という潜在的な欲求かもしれない。ほっておくと脳内メモリをどんどん使用しちゃって動作が遅くなるから、たまにクリーンナップだ、みたいな。
結局、このときのランニングはヒザを悪くしてやめてしまった。戸塚駅から徒歩30分くらいの丘の上に住んでいて、坂が多かったり、あと最後のダッシュも響いたのだと思う。病院にいったら「ランニングでしょうね」と言われた。
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たぶん、ダッシュの仕方が極端だったのかもしれない。速度2倍くらいだった気がする。いや、いま考えてみると、そんな毎回毎回ダッシュしていなかったかもしれない。徐々に速度を上げたときもあったし、「猛ダッシュしていた」というほどのものじゃなかったかもしれない。記憶補正ってやつだ。
いずれにしても、おれの脳内のわかりやすい場所に「ランニングしたらヒザが痛くなった」という但し書きが貼ってある。
おれがランニングする理由を”メモリ解放”とするのであれば、散歩にもその効用はある。ただ、どちらも”街”という風景が脳に情報として飛び込んでくるなかで、散歩よりランニングのほうが意識が自分に向きやすいのかもしれない。速度の関係で。
散歩だと速度がゆっくりだから注目しやすく、意識が自分の外に向きやすいが、ランニングは速度が上がって景色の情報処理がそこまで追いつかず、自分の思考の一部になるのだろうか。
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ランニングしてない人間がなにあーだこーだ考えてんねん、と書きながらつっこみたくなってきたが、こうやって脳で考えるより「とりあえず動いてみろ」ということだろうか。経験値がよくもわるくも増えてくると、理屈ではない”運動”に対して理屈ビームを当てたくなるこのやっかいなやつ。
そういえばパーマリンクの just do itで思い出したが、映画『AIR』は観た。あれ、アマゾンも制作にからんでたのか。面白かった。今日は動画編集デイ、明日は岸辺露伴である。
※サムネは以前のフォトウォークで撮影したもの
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