地獄のパーセンテージ

使い捨てのパソコンの液晶クリーナーを買った。使うために中の銀色の紙を剥がして、中身のペーパーをフタの小さいスペースにきゅいっと出して、フタをして、一枚目を取る。フタのタブがしまらない。ペーパーが出すぎている。もう1枚だす。閉まった。画面を拭きおわると、机に置かれた銀色の紙が目に入った。ヨーグルトを思い出す。でも、ヨーグルトを食べたくなるわけではない。

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『口訳 古事記』を読み終えたところで、いまは『世界はなぜ地獄になるのか』(橘 玲)という新書を読んでいる。この著者の本はいままで何冊か読んだことがあり、最近だと『無理ゲー社会』が自分のなかでは記憶に新しい。とはいっても、古事記から地獄へ、という「その切り替え、どうした」と思ってしまう流れである。

読みたい本を選ぶときに、自分のなかで「攻め」と「守り」の2つがあるような気がしている。だいたい「攻め」である。なにか学びたいことがあるからそれを「学ぶ」、その方向で攻めている。そう考えるとどの本を読んでも学びがあるんだから、ぜんぶ「攻め」じゃないのか、とも思うのだが、微妙に違うようである。

ちょっと書きながら考えているので理屈がとろける可能性があるのだが、最近は小説という「物語」も読んでみた。自分の読書環境に新鮮な空気が入った。そこに古典というか「神話」も入り、これまた新鮮な空気である。だから、攻めと守りはちょっと例えが違うんじゃないかと書きながら思ってきてしまった。

分類するのはやめよう。要するに、本を手に取るときに自分の心配性がでて、それが「盾がほしい」だったり、不安や守りのような感情が影響して手に取る本があるということである。「世界は地獄なんだぞ」なんていう本には不安しか書かれていないと想像してしまうが、それでも手に取るのは不安だからである。どこかにある、まだ自分の気づいていない大きな落とし穴があるのではないか、それに落ちたくない。たまには妄想から離れて「現実を見なさい」という言説に触れてもいいのではないか。そんな感じで手に取るわけである。

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さて、この『世界はなぜ地獄になるのか』という本、もうちょっとで読み終えるところである。表紙に「キャンセルカルチャーという『大衆の狂気』を生き延びる」とあるように、そこには記憶にあたらしい小山田圭吾の騒動の含め、ジャニー喜多川、現代芸術家の会田誠、あいちトリエンナーレなど、さまざまな出来事が書かれ、考察されている。障害者と障がい者、どちらが正しい表記か、という話もある(絶対的に正しい表記はないので、本書に正解が書かれているわけではない)。アメリカでは白人を意味する「ホワイト」とう単語を、あえて小文字のwhiteと書く場合があるという。白人至上主義者がWhiteと大文字で表記するため、これに賛同していると思われないためだという。なんて複雑な世界なんだ、と思った。

この本には、天国(ユートピア)と地獄(ディストピア)が一体となった、という意味で「ユーディストピア」という単語が登場する。天国と地獄が一緒になってるなんて、すごい世界である。でも、これはわかるような気もする。

特にネットの発達で誰でも発信ができるようになったことは、ぼくとしては「すばらしいことだ」と思っていた。たぶん、5、6年前の自分だったらこの感情が100%だろう。でもいまは、これが60~70%くらいになっている感覚がある。

中田敦彦が以前、自身をアバターにしようと試みたことがあった。その理由として「顔だしで有名人になることはコスパがあわない」というようなことを言っていたような気がする。結局、動画自体のパフォーマンスが中田敦彦という実写の人物に大きく影響していることがわかり、たしかアバター版の動画を数本公開して、実写に戻ったという記憶である。その判断の早さに「すごいな」と思ったのであるが、自分としては「有名人になることはコスパが合わない」という言葉がずっと脳につっかかって離れないこととなった。

自分にそれができる能力があるかどうかの議論は別として、顔を出して有名人になって数百万人のフォロワーを抱えるというのは、もはやぼくにとっては憧れの現象ではなく、「大変そう」という感情が先行する感じになってきている。本人からしたら「余計なお世話だわ」ということは間違いないので、あくまで心の中で思ったりしている(とはいいつつこうして書いてしまっている)。「大変そう」もあるが、憧れというよりも敬意のほうが現れているのかもしれない。

それでもやっぱり、有名人の訃報の知ると、心がしずむ。支援してくれるファンが何百万人といて、金銭的にも不自由ないだろうな、と想像はするのであるが、それでもこうした悲しいニュースを知らされるのは、明らかにそこに”ねじれ”のようなものがあるのだろうな、と感じる。だれでも努力次第で有名人になれる社会になったような気がするが、果たしてその”有名人”になることで生じる代償というを、おれはちゃんと理解しているのだろうか、とときどき不安になる。手が届きやすくなったその現象に、何パーセントの地獄が混じっているのだろうか。

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そういえばずいぶんと昔に、『「有名人になる」ということ』という本を読んだのを思い出した。著者の勝間和代自身は「有名人になりたい!」と思っていたというよりは、会社の経営戦略のひとつとしてやった、というようなことが書いてあったとおぼろげに覚えている。印象的だったのは「一度有名人になると、逆戻りできない」という言葉である。一度有名人になると、引退したとしても「あの人は、いま」というような企画でネタにされたりするし、一般人にはなかなか戻れない。読んだ当時、自分なりに「そうかあ」と先人の言葉を吸収してはいたが、その後の自分は顔をだしてYoutubeをやったりしたわけである。当時、まだまだ憧れは強かった。

不特定多数に向けて情報発信ができる社会というのは、もうそれは「すばらしい」の一言であることは変わりないし、顔出しで動画で発信している人たちのことだってまったく否定しないし、むしろ応援したい。自分の価値観を発信して、顔も出して、声もだして、その潜在的共感者とつながれるなんて、ほんとにすばらしいことだ。ぼくもそれはしたい。ただ現状は、それが成功すれば成功するほどリスクというのも増えるような印象もうける。そのリスクを強靭のメンタルで「おりゃー!」と突っ切っていける人もいるのだろうけど、それができない人だっている。でも、発信はしたいし、誰かと繋がりたい。これは自分のことでもあるのだけど、そういう弱々メンタルの人でも安心して発信できる社会というのがいいよな、とは思うのだけど、なかなか複雑みたいだ。天国のように見えた世界には、地獄もあったらしい。

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そんな不安があってか、たまにこういう本を手に取ったりする。”発信”とはいってもいろいろな距離感があって、ぼくの場合はテキストが合ってるような気がしているのだけど、これも引き続き実験の連続だろう。

なんかちょっと今日のおれ熱くないか。いや、たんに不安心をふわっと出しちゃった感じかもしれない。とはいいつつ、侘び寂びの本とか『遠野物語』を併読しているので、ちょいと守りのようなものをはき出した今日の文章である。

※サムネはUnsplashより

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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