今朝、ベランダをあけたらだいぶ寒く、久しぶりに長袖で公園に出かけた。天気アプリで週間天気を見ていたら、最高気温が20度を下回る日が続く、と。いよいよ体感的にも夏の終わりか、と思った。帰り道、もう一度天気アプリを開いてみると、見ていたのは”最低”気温で、最高気温は相変わらずの夏っぷりだった。
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最近、本に線を引くために赤のダーマトグラフを買った。ワックスが含まれた太い色鉛筆みたいなもので、ガラスや金属にも書けるもの。もともとは医者が手術時に患者の皮膚にマーキングするためのものとして開発されたみたいである。紐を引っぱれば中の芯がでてくるので、削る必要もない。
なぜ買ったかというと、コスパである。普段使っているペンで本に線を引いていたら、そのインクの減るスピードがなかなか早かったのである。一方でダーマトグラフは、使いはじめて数週間ぜんぜん減る様子がない。コスパという意味では買ってよかった。
ただ1点気をつけたいのは、バッグなどに収納するときである。持ち運ぶときだ。この前、キャップもつけずにバッグに入れていたら、帰宅してバッグに赤い後がまあまあついていた。ワックスが含まれている関係で消すのが大変である。完全ではなかったが、10分ほど格闘してだいぶ消すことができた。
ダーマトグラフ使用時の注意を書いておく。
1. キャップをつける(付属してないので自分で調達する必要あり)
2. バッグに入れるときは跡がつかないように防備をする
まあ、そもそも筆記用具として外に持ち出すということは想定されていないのかもしれない。置かれた場所でずっと咲くべき筆記用具、ダーマトグラフである。
Re: 周辺の産物:目的の手段化
おれの場合、小学校、中学校、高校という学生時代にどんなことを勉強したか、という記憶が薄い。ぱっと思い出せるのは、小学校では国語が苦手で、高校では生物と地理が好きだった、くらいだろうか。ミトコンドリアがなんか好きだった。響きがいい。哲学の世界をのぞきはじめたのはここ5年くらいの話だから、学生時代にソシュールのソの字だって聞いていない(はずである)。専門学校では、熱帯魚、海水魚、両生類、爬虫類の飼育を学んでいたし。高2くらいの時期に村上春樹に出会うまでは、読書は嫌いだった。
中学(サイパン)と高校(帰国子女として編入)では、アウトサイダーという感じだった。一言でいうと、学校になじめなかった。中学では学校になじめないなか、スケボーに熱中していたし、高校ではエレキギターにハマったり、ウーパールーパーに出会って熱帯魚飼育の世界に魅了されていった。外部(アウトサイド)からやってきて内部(インサイド)になじめず、外部(アウトサイド)に魅了されていた。
付け加えると、性格として「空気をゆらさない」というのがある。「乱さない」となるとネガティブな方面に持っていかないとなるが、そうではない。ネガティブでもポジティブでもその両方向で「ゆらさない」という性格があった。勝手にニュートラルキーパーみたいなことをしていたのである。いまはだいぶ変わってはいるが、この一面は残っていたりする。
いわゆる転校生みたいな感じで入学しているようなものだから、いきなり目立つわけである。「目立つ」は空気をゆらしてしまっている。それを抑えようとしたのかもしれない。薄毛をからかわれたこともあった(これについては30歳でスキンヘッドにして悩みとしてはほぼ消滅している)。なんかいろいろな要素が絡み合って”空気”みたいな存在になろうとしていたのだと思う。
こういうのは今となってはぼやけた記憶だから、自分都合の記憶の再構築でしかないのだけど、それでも振り返って思うのは、学生時代になにかしらの”抑圧”のようなものを経験していたんだろうなと思う。いろいろなものを自分の中に閉じ込めておく、という意味での抑圧である。その解放先としてスケボーやギターがあったわけではある。ただ、これらは「抑圧の解放先」と単純に説明するにはちょっと違うような気はしている。スケボーには青春があったし、ギターがおれを村上春樹に導いてくれた。
読書の世界に入ったのは高2だけど、そこから「書く」というアウトプット知るのは25歳くらいである。「読む」行為が「書く」行為にたどり着くまで6年くらいかかっている。そして、書いたり、書かなかったりを繰り返していまにいたる感じである。
抑圧されたものを軽減、解放する手段としては、「書く」がいまのところ一番フィットしている。それはたぶん、アウトサイダーとして過ごした学生時代の時間が反動として加わってもいるような気がする。
※サムネはUnsplashより
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