ベタな生き方

いよいよ今夜、親知らずを抜く。あーいやだいやだ。と思いながらも、とりあえず現金だけ用意しておかなくてはいけない。コード決済が使えない歯医者のほうが多いはずである。ぱっと調べたところ、5千円あれば足りそうだ。通勤中にセブンに寄っておろそう。

そんなことを考えていたら、ふとバックパック旅の準備の頃を思い出す。1年間で10万円いかないくらいの保険料を払っていたけど、たしか歯の治療は適応外だったか、負担額が多かったのか、「旅前に歯医者は必ず行っておくこと」という情報があって、ちゃんと行っていた。

この前、親知らずのところが腫れたときに歯医者でレントゲンをとって薬を塗ってもらい、薬ももらった。それで1500円だった。安い。保険ってすごい。アメリカでは、保険を適応しても歯の治療が高額だという話があり、それでフロスをするのが一般的だというのを聞いたことがある。定期的にクリーニングに通うなんてこともハードルが高いのかもしれない。

Re: 「あるない」のためのベタ

おれもそういえば、この前実家から段ボールが届いたのだった。ありがたい限りである。おれの場合、届いた段ボールにお菓子やチョコが入っていることはない。「お菓子食べないんだよね」と親に伝えているからであろう。その代わりなのか、茹でピーナッツが二袋入っていた。

朝、昼、晩という3つのタイミング以外でご飯を食べるという発想があまりなく、というか「気づいたらなくなっていた」というのが正確かもしれないけど、お菓子があると「あ、これ食べないと」と意識しないとずっとそこに居続けることになることが多い。茹でピーナッツとナッツくらいが、唯一の間食になりえるものかもしれない。

— ☕️ —

マキタスポーツの「メタ的に物事を見るのではなく、ベタに生きろ」というのは、なかなか深い。いま「べた」と打ったらPCが「下手」と変換した。「下手に生きろ」とも言えるのだろうか。「ベタ」は「あるある」で「下手」でもあるとすれば、「生きるのが上手なやつなんていない」ということなのかもしれない。上手に生きようとするな、と。

「ないない」だったものを「あるある」に変えるのは意味がない。変わるのは一つだけでいい。「あるない」だ。

そうか、「ないない」を「あるない」に変えるときの冒頭の「ある」がつかみということか。「ない」のであれば関心は向かないけど、「ある」のであれば関心が向き、共感も起こる。でも、「あるある」だと共感だけで終わってしまい、それは友人との世間話でもいいというのもある。「ある」で入ったのに「ない」がやってくる。そこにエンタメがあるのかもしれない。

ふと『バカの壁』にあった一文を思い出す。

「あんたと隣の人と間違えるやつ、だれもいないよ」と言ってあげればいい。顔が全然違うのだから、一卵性の双生児や、きんさん、ぎんさんじゃない限り、分かるに決まっている。「自分の個性って何だろう」なんて、何を無駄な心配をしているんだよと、若い人に言ってやるべきです。

『バカの壁』Kindle版 51ページ

個性だって「ある」か「ない」かではなく、そもそも「ある」に決まっている。世間でいわれる「個性の尊重を」に対して養老先生が「個性なんて『ある』に決まってるじゃないか」と言うのは、「あるない」のような気もしてきた。

当たり前にみんなに個性が「ある」んだから、そこについて考えるのではなく、「ベタ」を見つめることで「あるない」に近づくのだろうか。

ちなみに「ベタ」という淡水魚がいるけど、エラにラビリンス器官というのがあり、空気中から酸素を取り込めるからブクブクは必要なく、グラスで飼育できる。オス同士でいれるとしぬまで闘うから、基本的に一匹で飼う。魚としてはだいぶ個性的ではある。

「ベタな生き方をするベタ」という光景だけ妄想してみて、終わりにすることにしよう。

p.s. 『葬送のフリーレン』が最新話まで観終わり、いまは『ブラッシュアップライフ』を見ている。半分まできた。TikTokで死後の案内所のシーンだけやたら流れてきていて、存在は知っていた。「徳を積む」という自己都合で他者を救うその様は、それこそほんとうの意味での利他のように見えてくる。

あと、主人公が友人などに「実は人生2週目なの」と伝えないところもいい。それをしてしまうとSFドラマになってしまう。設定はSFっぽいけど、あくまで日常をベースにしている親しみぶかさのあるドラマである。

あと、ツイッター(現X)で話題になっていた猪瀬直樹×東浩紀「日本は『訂正』できるか」が気になってしまい、課金して昨夜みていた。この険悪な空気、現場に観客としていたら耐えられなかっただろうなあと想像しながら「話の通じない相手とどう対峙するか」という教科書を見ているような気分だった。

東さんが『訂正する力』で書いているように、対話するというのは自分の意見を変える準備があるということであって、事前に準備した考えをただ伝えるのは対話ではないのだろう。頭脳作業に寄ってしまいな自分としては、ここは気をつけなくてはいけない。「聴く」というのは、なかなか大変なことである。

yoshikazu eri

当サイトの運営人。大阪生まれ千葉育ちの87年生まれ。好奇心旺盛の飽き性。昔は国語が苦手だったが『海辺のカフカ』を2日間で読破した日から読書好きに。気づいたら2時間散歩している。

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